■2021年3月29日:スパイ小説の世界へようこそ
1
男は、五十代前半に見えた。
隣に座っている青年は、二十代前半。
五十男はどう見ても日本人だが、
青年の方は、東南アジア系の顔立ちをしていた。
二人は、揃って木造りのカウンターに座っていた。
カウンターの向こうには、五十男と同年代の板前がいた。
こちらも日本人だった。
「さすがお父さん、いきなりスパイシー・ツナロールを注文するなんて、目が高いね。
この店の看板料理だよ」
青年が五十男に言った。
かなりなまりのある日本語だった。
「目が高いだって?
お前こそ、何でこんな店知ってるんだ?」
「ときどき飲み会に使うから」
「飲み会だって?
お前、二十になったばかりだろう!」
「今の話は聞かなかったことにしますよ」
とは板前。
料理を出してから、他の客のところに行っていたのだが、
戻ってきていたのだ。
さきほどから、この奇妙な組み合わせの二人の会話に興味津々だった。
場所はシンガポール、タンジョン・パガー・ロード。
この高度に国際都市化した街の、チャイナ・タウンの外れにある。
各国人種が渾然化した夜の狭い路地で、
様々なバーのきらめくネオンに埋もれて、この店はあった。
板前は店主だったが、
チャイナタウンの一角に日本料理店を出すために、
店主は並々ならぬ努力を払っていた。
例えば、近くの中国系のバーから、さんざん呑んで出来上がった客が来て、
マグロの最上の切り身を出せと注文されたことがあった。
店主は日本から輸入している選りすぐりを用意したのだが、
こんなものは食えんと文句を言われ、抗議しようとしたところ、
その客は実は政府の役人で、この店の登記にひと肌脱いだ人物だったことが分かった。
店主は、料理の代金を目をつぶることで贖罪した。
華僑が支配するこの国では、イエス・キリストやアッラーの神より、
中国共産党の方が偉大なのかと思ったりしている。
「いいか、お前の留学を許可したのは、死んだお母さんがお前を愛していたからだ」
五十男が続けた。
「わかってるよ」
息子が二十代の青年らしい、ほんの少し抗議の色をにじませた声音で答えた。
「それで、金がないとはどういうことだ?
お前に使っていいと言ったのは月1,300ドル
(シンガポール・ドル。約10万円)までだったよな。
アパート代と光熱費は別に払ってやっているのだから、
後はバイトでもして稼げとな」
「そうだけど、それだけじゃ暮らせないよ」
「そんなことは知らん。それでできると言ったのはお前だ」
「でも、日本語の勉強をしながらバイトっていうのが、
なかなか思うように時間が取れないんだ」
「ハーム プート マイ ミー ウェラー
ミー ウェラー トゥック コン ムアン カン」
「今のはタイ語だろ?なんて言ったんだ?」
店主が不思議そうに訊いた。
「時間がないとは言わせない。
誰でも与えられた時間は同じである」
五十男が答えた。
「へぇ」
「それだけじゃないだろう。
勉強だけしているのなら、足りないはずはない」
五十男はまたタイ人の息子にたたみかけた。
「・・・」
息子は言葉に詰まっていたが、
そのうちに、言った。
「子供ができたんだ」
中年の男二人は動きが止まってしまった。
父親はそれまでツナ・ロールを箸でつついて
倒したり起こしたりしていたのだが、
ツナ・ロールは倒れたままになった。
彼は言った。
「お前、それじゃお前の親父とやってることが一緒じゃないか!」
「そんなことないよ」
「ないわけない!
お前の親父は、お前が生まれたときには、
もう他の女を身ごもらせていたんだ!」
「僕はそこまでバカじゃないよ」
「いいか、お前がバカかバカじゃないか判断するのは、
お前じゃない。お前の父親だ。
お前は、大人になってからまだ1年も経っていないんだ。
そもそも、最初と言ってたことが違うじゃないか」
「何だか、複雑な事情がありそうだねぇ」
また店主が割り込んだ。
「こいつは、オレとかみさんの子供じゃないんだよ。
こいつの両親は、こいつが2歳かそこらの頃に、
それぞれ別の相手を作って出て行っちまったんだ。
親父の方は、子供まで別に作ってるらしい」
「かわいそうにね。
それで、あんたの奥さんが面倒を見ていた?」
五十男はうなずいて答えた。
「ああ。母親はたまに息子に会いに来たりはしていたんだが、
親父の方は、完全に蒸発した。
親父と似たようなことをするとは。
血は争えないんだな」
「この子の場合は、まだそこまで行ってないんじゃないかい?」
目の前で縮こまっている青年を庇って、
店主は弁護した。
「どうだかね。
さっき、こいつが平然と嘘を言うのを聞いたろう?
タイ人ってやつの中には、無意識に嘘をつくやつがいるんだ。
こいつにそのまま大人になってもらっちゃ困る」
「悪気はないんじゃないか?」
「罪の意識がないから問題なんだ」
結局、二十歳の青年は、それから30分ばかり、
血のつながりのない父親に絞られた後、放免されて帰って行った。
先に帰したのは、学生は明日も学校だから、という以外の理由もあったのだが。
残った父親は、さんざんつついて既に”ロール”ではなくなっている
ツナと米の残骸を、別々に箸でつまんで口に入れていた。
「もっとうまそうに食ってくれよ。
マグロを輸入するの、大変なんだぜ?」
「まったく、飲みに行こう、と言うから
わざわざ飛行機に乗って来てみたら、これだ」
「お子さんがいるとは言わなかったよな。
しかもシンガポールにいるなんて」
「お前のところもそうだと思うが、
コロナの後の再編が済んでなくてね。
若いやつらがやめた後の補充で忙しくて、
話する暇なんてなかったさ。
まあ、やめたやつらはコンピューターをカチャカチャやっているだけの
オタクだったから、どうでもよかったんだが」
「そういうことか。
でも、何でシンガポールなんだ?」
「日本語の勉強をしたいってことだったから、
最初日本に行かせるか、シンガポールにするか、話し合ったんだ。
オレとしては、軟弱な日本には行かせたくなかった」
「あんたもやっぱりそう思うか?」
「今の日本には、自分で自分はうつ病だと言う輩がいるらしい。
戦時中に生きた人が聞いたら、
かくも子孫は退廃したかと、嘆くだろうな」
「世も末だな」
「ま、お前に会いに来るついでに息子にも会えるかも、
っていう下心があったのは認めるが。
それにしても、あいつがお前の店を知っていて、待ち合わせの場所に選んだときは、
冷や冷やしたぞ」
「こっちもだよ。
常連のあんちゃんが手を挙げて合図した相手が、あんただったんだからね」
「あいつはどのくらい前からここに来ているんだ?」
「2年も経ってないよ。大学生なんだろ?」
「ああ。女のねぐら以外にも、
変なことに首を突っ込んでなけりゃいいんだがな」
「それはそうと、あんた再婚しないのか?」
「マフアンはオレには過ぎた女房だったよ」
「そうだよなあ。
あんたがきれいな女を連れてシンガポールに来たときは、ビックリしたよ。
あれがもう二十年近く前だなんてな。
聞いたらタイ人だって言うから、2度ビックリだ」
「そういうお前はどうなんだよ?」
「ま、オレのかみさんもここで知り合った華僑だからな」
「外国人の女に惚れるのは、何も西洋人だけじゃない」
「そうだけどな、日本人と中国人ってのは、結構いるんだぜ」
「言っただろ、最高の女だったんだ」
五十男は繰り返した。
「あんた、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないさ。
妻を失って数年で、今度は息子の不祥事だ」
五十男は、酒を飲まないので、冷たい茶をストローで啜っていた。
「それより、キツネは尻尾を出したのか?」
五十男は、唐突に切り出した。
「うん、IS(Islamic State。 2000年代後半に勃興した、
イラクとシリアを中心としたイスラム過激派組織。
2013年ごろ、自分たちは国家であると主張し始めた)
もコロナが猛威を振るっている間は大人しくしていたようだから、
兵站が錆びついていたらしくてね。
動き始めたのは、すぐにわかった」
数年前、コロナという疫病が人類に多大な教訓を与えて去った後、
ISの活動再開とともに、二人が世話になっている組織も稼業を復活させていた。
二人は、それぞれが住んでいる国の情報機関に雇われていた。
五十男の方は、20年務めた勤務先で知り合った妻と、
彼女の生前、よく二人でシンガポールに旅行していたのだが、
チャンギ国際空港の、シンガポール航空のシルバークリス・ラウンジで出会った、
タイ政府の高官にタイ語が話せるところから、スカウトされたのだ。
この高官は、NIA(National Intelligence Agency タイ王国国家情報局)の
工作担当副部長だった。
店主の方は、日本の大学で学んで英語が話せたので、
金融共和国であるシンガポールで就職して、
金融の世界で名を上げる道を選んだ。
その方面での才能は開花しなかったが、金融マンを断念して、
自炊しているうちに覚えた料理の腕前を、場末で発揮することにした。
シンガポールでも、日本料理は人気だ。
そのうちに、金融街時代の同僚の客を通じて、
諜報機関の人間に耳打ちされたらしい。
ある日、グレーのスーツを着た人間から料理以外の注文をされたとき、
もともと毎日料理を続ける生活にも飽きていたので、
彼はスーツの客のレシピを考えてみることにした。
こちらのグレーのスーツの御仁は、
JID(Joint Intelligence Directorate シンガポール統合情報本部)の徴募係だった。
中年男二人は、日本の高校で悪友達だった。
卒業後、別々の道へ進んだのだ。
「足取りをつかんだのはどこだ?」
「ラブアン島だよ。例のごとしさ。
金の中継地点だよ」
ラブアン島は、マレーシア領のタックス・ヘイブン島だ。
「シンガポールに来たのは羽を伸ばしに来たってことか?」
「そんなところだろうね」
「だいたいでも居所はわからないのか?」
「無理だよ。ハワッラダーなんだ。
(ハワラとはイスラムの伝統的なシステムで、銀行を頼らず信用だけで送金するシステム。
電子的に足跡をたどることがほぼ不可能。ハワッラダーはその仲介人のこと)
わかるだろ?
ここ(シンガポール)にいるってことがわかっただけでも、幸運だよ」
「まあな」
「ターゲットの名前は?」
「バイバルス
(中近東に侵入してきたモンゴル軍を破ったマムルーク朝の武将で、
後に同王朝のスルタンになる。十字軍とも度々戦っている)。
本名かどうかは知らんがね」
「むぅ」
五十男は思わずうなった。
間違いなく偽名だろうが、バイバルスとは、これはまた渋い選択だ。
普通、キリスト教徒に一矢報いたい、という命名なら、
サラディンとかスレイマンあたりが候補になりそうなものだが・・・
ただの仲介人だろう?
「あんたがやるのか?」
「まさか、若いやつにやらせる」
50を過ぎて、格闘技の物まねなどするわけがないだろう。
そんな技術も体力も、どちらもない。
「あんたの息子さんぐらいの歳の?
それじゃただのチンピラだ」
「どんなやつかなんて知らんさ。
オレがそいつを知ってたら、作戦にならんだろ?」
「それはそうだな」
五十男が帰りかけたとき、店主がまた声を掛けた。
「なあ、養子をとるってのはどんなもんだ?
愛せるのか?」
「関係はあまり覚えていないのだが、
母の、はと子の人だったか?養子の人がいる。
戦争孤児だったんだ。
戦友の息子だから引き取られたらしい。
その人は良い人だよ」
2
五十男は、翌朝は8:00に起きた。
普段は、6時か7時には起きている。
昨日帰ったのが遅かったからな、と寝間着を着替えながらひとりごちた。
泊っているのは、シンガポールの一大ショッピング・センター、
オーチャード・ロードにあるマリオット タン プラザ ホテルだった。
五十男は、背が低く痩せていたが、
高級ホテルの朝食ビュッフェが好きだった。
ホテルに泊まった時ぐらいしか、味わえない。
服装は、ジーンズに腕まくりしたリネンのシャツと、G-SHOCK。
足元は、ダナーのブーツ、キネティック 6だ。
観光客に見えればいいのだ。
シンガポールで、これ以上どんな服装がある?
これが、この稼業を引き受けた理由のひとつだ。
スパイだから、世界中どこにでも行かされるだろう?
いやいや、もともとタイの諜報機関など欧米やロシア、
中国の同様の組織と比べればたかが知れているが、
スパイにも担当地域が決められている。
まして、五十男のように正規の職員でなければなおさら、転勤などない。
東南アジア一帯にシマを張れ、といったところだろう。
コレステロールを気にしているわりに、
フレンチトーストをかじりつつ、コーヒーをひとくち飲んだ。
うん、ここのコーヒーは悪くない。
コーヒーの味はホテルの格を判断するひとつの尺度だ。
マフアンのことを考えた。
マフアンは五十男がサラリーマンだった時代、
タイの工場でシルクスクリーン印刷の工程を監督していた。
工員の印刷機を操作する向きを手ほどきしているときの、
マフアンの横顔を思い出した。
窓から入る日差しが照らす、マフアンの横顔はとても美しかった。
いかんいかん、今は仕事だ。
息子のノトのことも頭をよぎったが、考えるだけで途方に暮れそうなので、
そちらも頭から振り払った。
またコーヒーを一口飲んでから、作戦のことを考えた。
アメリカ主導の外国軍に押されて、ここ数年はほとんど何も成果を上げていないISが、
焦ってよその国に張っているテロリスト網に、何か派手なことをやらせたいのはわかる。
それが東南アジアのどこであれ、
連中にしてみれば場所は例えば繁華街を爆破するとか、
そういうたぐいのことだとして、おそらく国はどこでもいいのだろう。
また、仮に爆破だとしても、まさかそれをモーニングコールにしようとは考えていないはずだ。
従って、規模はそれほどでもない。
だから、仮に被害者が出たとして気の毒だが、テロ自体は阻止できればどうでもいい。
問題は、資金源だ。
ラブアン島だとすると、ISが直接融通するのは、あからさまもいいところだろう。
中国が絡んでいるのだろうか?
その辺は、昨日の店主も匂わせていなかった。
まさか、連中だってことが発覚すれば、
自由主義陣営側からただでさえいろいろ制裁を受けているのに、
これ以上不自由な思いはしたくないはずだ。
さらに、雇い主であるNIAがなぜこれに絡んでいるのかも謎だった。
タイは軍政後、アメリカとは疎遠になって、じわじわと中国に接近している中で、
自由主義陣営にも留まりたいから、どっち付かずの態度を続けている。
今回の作戦は、ISの標的はキリスト教陣営だから、
アメリカあたりの圧力と考えられるが、タイにとってのうま味はどこにある?
もちろん、テロのターゲットがタイである可能性も0ではないが、
今述べたように現在、タイとアメリカはそれほど蜜月ではないから、
その可能性はかなり低いだろう。
アメリカは中国の南下政策阻止のため、タイとの関係を回復したいのか?
作戦成功の暁には、タイは中古のF-16C/Dを1個飛行隊分頂戴できるとか?
中国なら、そんなことはしない。
中国が戦闘機をタイに譲渡したりしたら、自由主義陣営諸国は
(タイに対して)黙っていないだろう。
5.6年前、トルコがロシアから地対空迎撃ミサイルを購入して、
アメリカの新型ステルス戦闘機”F-35”のプログラムから締め出された。
元々トルコは、NATO加盟国でもあったところから、
同プログラムにはかなり有利な条件で参加していた。
それが、いっぺんでパァ、だ。
もちろん、アメリカの制裁はそれだけでは済まなかった。
それほどアメリカの怒りは激しかった。
アメリカとしては、トルコはNATOの南東方面の要。
強固な同盟関係を築いておきたかったのが本音だろう。
アメリカがタイに戦闘機を譲渡しても、中国はへいちゃらだ。
自分たちの兵器をタイに安く売りつける口実になる。
ここが、中国の弱点だ。
強欲なのだ。
中国のやることには金が絡むから、簡単に足が付く。
あの国のスパイ組織は、昔のソ連みたいに、隠密作戦が得意ではない。
中国が黒幕なら、店主が何かつかんでいるだろう。
あいつの女房も所属先も華僑なんだから。
うーん、わからん。
そういう政治的な駆け引きではないような気がする。
なにか、純粋に邪悪なものが見えるような・・・
コーヒーが切れた。
お代わりしたかったが、これでもスパイのはしくれだ。
長居するのも良くない。
それを言ったら、同じホテルに何泊もすること自体、考えものだ。
もっとも、来てからキャンセルして振り替えしても良いと計画していたのだが。
もし、五十男のことを追跡している暇人がいたとして、
まずは宿泊予定で攪乱できるわけだ。
明日もいるだろうから、今日は下見して狙うのは明日でいい・・・
とか。
シンガポールは観光大国だ。
泊まるところなど、いくらでもある。
今日は下手人に会う予定だった。
いや、直接会うわけにはいかないから、指定された場所で文通するだけだ。
それはボート・キー(シンガポール河口沿いにある飲食店街)とサーキュラー・ロードの間にある路地の、
居酒屋の裏のゴミ容器の下に、ラブレターを置いてくる、という指示だ。
その晩のうちに回収されれば、無関係の人間に発見される恐れは、まずない。
奇妙なことにNIAからはラブレターがきちんと持ち去られたことを、
確認してほしいと言われているので、あまり早いうちに設置しておくのは面倒だ。
もっとも、あんな場末もいいところで、昼間っからうろつくのもどうかと思うが。
この場合、やり方によっては下手人の顔を拝むことも不可能ではないが、
それはルール違反というものだ。
もし相手がゴルゴ13だったら、五十男の方までターゲットと仲良く並んで
棺桶に入れられてしまう。
反対に五十男に目撃されてしまうような下手人だったら、
ターゲットがどんな野郎(いや、男か女かもわからない)かは知らないが、
この仕事には向かないだろう。
五十男はタンジョン・パガー・ロードの店主からの情報を
記したラブレター自体はもう書いたので、
昼間は情報収集がてらどこかで時間をつぶすことにした。
店主が昔勤めていた、金融街でもブラつこうかと考えた。
昼間なら人も多くて紛れ込めるだろうし、
そこからなら、ボート・キーにも歩いて行かれる。
3
朝食後、五十男は一旦部屋に戻った。
別に用はなかったが、朝食会場で1時間近くぼんやりしてしまったので、
張り込みされていた場合に備えて、その有無を確認するための行動だった。
彼は上層階に泊まっていたのだが、エレベーターの2F下で降りて、
残りは階段を上った。
尾行はなかったが、不在の間に部屋に侵入されたかどうかを探るため、
一応部屋も覗いてみることにした。
当然、ドアノブには”ベッドメイク不要”の札が掛かっている。
ドアを押し開けながら、一歩後ろに下がった。
ドアの後ろに置いてあったコーラの空き缶が転がって、床の上に倒れた。
床に敷いてあったフロアマットの上に、缶の中身の染みが広がっていく。
ただし、中身は少なかったので、大した染みにはならなかった。
五十男が仕掛けておいた、ちょっとした対監視手段だった。
普通、欧米資本のホテルのドアは、内側に向かって開く。
これは主に防災のため(避難経路の確保)だが、
スパイにとっては、監視・防御手段を設置するための設備であるとも、五十男は考えていた。
これで誰かが部屋に侵入したかどうかが分かるし、
フロアマットが少し汚れたくらいで、目くじらを立てる高級ホテルはない。
仮に侵入者があってフロアマットが汚れても、
それが乾くほど長時間留守にするつもりはなかったし、
空き缶の中身がなくなっていて、フロアマットが汚れていなかったら、
フロントに誰かに頼まれてフロアマットを交換したかどうか、聞けばいい。
冷蔵庫内のコーラを空にしておくことも忘れない。
とはいえ、ほんの少し飲み残したコーラの缶が戸口に転がっていることほど、
不自然な現象はない。
だらしない人間に見えるよう、部屋は、
新聞を放り出しておいたり、スリッパを脱ぎ捨てたりして、
適度に散らかしてある。
部屋に入ると、ざっと部屋を見渡した。
何も異常はない。
五十男は他にも、いつも偽名で中身は空のクレジットカードと、
日本円にして1万円程度の紙幣を入れた財布を、
比較的目につく場所にさりげなく置いておくのだが、
それも無事だった。
これが盗まれれば、単なる物取りが目的なのか、
同業者が侵入したのか、ある程度判断が付く。
財布に入れてある紙幣も、ほどほどにしわくちゃにしてある。
見栄で高級ホテルに泊まってはいるが、
実際には大して金など持っていない、という演出のためだ。
とはいえ、安宿でこれをやるわけにはいかない。
毎回財布がなくなってしまう。
侵入の形跡はなかったので、
とりあえずのところは不穏な事態にはなっていないと判断して、
五十男はホテルを出た。
マリオット タン プラザはオーチャード・ロードとスコッツ・ロードの交差点に立っている。
マリオットを出ると目の前はオーチャード・ロードだが、
五十男は右折して、スコッツ・ロードのタクシー・スタンドでタクシーを拾った。
ホテルのエントランスでタクシーを拾うのは、いくらなんでもやりすぎだろう。
ドアマンか、出入りのタクシーだったりして、行き先が漏れる恐れがある。
五十男を拾ったタクシーの運ちゃんは、お約束で年寄りの華僑だった。
血走った眼をしていたが、それは中国辺りのタクシー運転手と違って、
ふんだくってやろう、という神経の持ち主ではなく、
単に老齢によるものらしかった。
五十男は行き先をラッフルズ・プレイスと告げた。
彼はたいして英語が話せなかったので、
御多分に漏れずタクシーの運ちゃんは、聞こえたのか聞こえなかったのか、
どちらともとれる曖昧な返事をした。
通じていないのだ。
五十男は面倒くさいので甘んじて様子を見ることにした。
車は15分ほど走ったのち、予想通り、かなり手前のチャーチ・ストリートで止まった。
元々、ラッフルズ・プレイスの中心はタクシーを乗り入れられるところではないし、
運ちゃんと揉めて顔を覚えられたりしてもことなので、
五十男は観念して金を払って車を降りた。
目の前に、プルデンシャル・タワーという、この界隈では中程度の高さのビルがそびえていた。
日中は、いつでもほんの少し歩いただけで、汗の噴き出る常夏の道を、
五十男はラッフルズ・プレイスまでの短い距離を歩いた。
ラッフルズ・プレイスに着くと、広場の中心、地下鉄の出口があるところまで歩いた。
少々目立つが、短時間なら問題ない。
ワン・ラッフルズ・プレイス(ショッピングセンター)と
UOBプラザ(銀行)を見上げる。
でかい。
コロナ後とあって、人の往来は以前より減っているように見えたが
(五十男もコロナ後初の渡航だった)、
それでも、ここはシンガポールの中心である。
この辺のエリアはシェントン・ウェイと呼ばれている。
シンガポール人の他に、中国人(シンガポール人も華僑だが、
旅行者のなりをしていれば、それは中国人だ。違うか?)、欧米人、インド人、
アラブ人に、カメラを持って観光客然としているのは日本人、韓国人だ。
東南アジア系と思しき人々は、もっとも軽装だ。
五十男は、一国の首都の経済活動を目の当たりにして、複雑な思いになった。
何年か前までは、彼もその社会の歯車の一つだった。
妻を亡くした後、五十男は働く気がなくなってしまった。
勤務先から2週間休暇をもらったが、その間、何もしていなかった。
犬を飼っていたのだが、それも飼えなくなり、
妻の実家の親戚に引き取ってもらった。
傍から見ると、うつ病に掛かったように見えた。
彼は社会から脱輪した。
そんなとき、シンガポールの店主から連絡があった。
相手は、何の気なしに連絡してきたのだが、
五十男が戦意を喪失していると知って、さっそく本題に入った。
実は、例のNIAの高官が、友好国であるJIDの人間にも、情報を流していた。
JIDに店主という日本人資産がいるのを知っていたので、
徴募しようとしている人間の身元調査も兼ねていたのだ。
すると、なんの偶然か知人だというので、接触を依頼したわけだ。
五十男は、妻が存命の間に入手した、NIAの公僕の名刺を引っ張り出してきて、連絡した。
相手は大喜びだった。
英語はともかくどうしても日本語が話せる部員が欲しかったらしい。
それは何もタイが日本に対して工作を目論んでいたわけではない。
諸外国の友好機関や、資産(ここでは非正規工作員を表すスパイ用語)には、
例の店主のように、意外と日本人もいるのだ。
そんなこんなで今、五十男はここにいるが、いささか人生の使い道を誤ったような
心地を味わっていた。
頭を振るって雑念を追い払った。
時刻はまだ午前だった。
この辺はオフィス街ばかりなので、ショッピングというには多少不便だが、
コーヒー中毒でもある五十男は、カフェを梯子してまずは昼飯の時間まで
時間を潰すつもりだった。
幸い、この界隈にはスターバックスが何件もあった。
五十男は、ビルの中に入らずに行かれる、CIMB BANKが入っているビルの、
1Fのスターバックスに外から入った。
ここはゴミゴミしていて奥まった一角にある。
さらに店は、実は出入り口が一か所しかないので、
入り口が見える場所に陣取れば、新しい客が入ってきても、すぐにわかる。
外はビジネスマンが溢れているのに、
店内は若者客が多く、五十男の後ろの席では、
褐色の肌の若者がイアフォンをして悦に入っていた。
上下に激しく首を振っている。
五十男が入って最初に来店した客は、日本人ビジネスマンだった。
彼らは大声で笑いながら奥まで進み、ソファー席を牛耳った。
どうやら、高島屋のバイヤー2名に、
新しい女性用ヒールのラインアップを拡充させたい、
シューズ・メーカーの一団らしかった。
やれやれ。
まっとうな職業に就いておられるみなさまは、
会話に秘匿もくそもないわけだ。
よろしく商談していやがる。
このスターバックスは30分で出た。
あまりにも騒々しかった。
店を出て、広場も突っ切ってバッテリー・ロードに出た。
バンコクも混沌(カオス)だが、
シンガポールもカオスだ。
ただ、バンコクと違ってシンガポールの街は美しい。
五十男は、飲まない分際で、場末を練り歩くのが好きだった。
シンガポールの街を歩きながら、
何度もこの辺を妻と一緒に歩いたものだった、と感傷に浸りかけた自分を叱咤した。
まただ。
作戦に集中しなければ。
バッテリー・ロードを西に進みサウス・カナル・ロードに切り替わる手前に、
OCBC Center(銀行)がある。
五十男は今度はそこの1Fの、通りに面したテラス席のあるスターバックスに入った。
テラス席には座らず、窓際に陣取る。
窓際席というのは、後ろの店内が見えないように思われるが、
この店は、ひさしがかなり出っ張っており、影になるため、
店内の様子もガラス戸に反射して見えた。
ここは21:00には閉まるようだが、そんなに長居するつもりはない。
特に脅威も感じられないため、五十男は窓の外をぼんやり眺めていた。
ハクい欧米人の女性がかわいい男の子の手を引いて通りを歩きすぎていった。
幸せそうだった。
ただし、五十男はそれ以上何も感じなかった。
自分にも、養子だが男の子の息子がいた。
はたちで、五十男から見ると根性も何もない男の子が。
五十男の両親は存命であり、彼らに言わせれば、
お前のそのくらいの歳だった頃と何も変わらない、となるのだが。
いや、そんなことはない。
少なくとも、オレは当時未婚で子供なんか作らなかった。
そういえば、このニュースをおじいちゃん・おばあちゃんにどう伝えようか。
どうせ、お前が親身に教育しなかったからだ、とかなんとか言われるに決まっている。
また気が重くなってきた。
気が付くと正午近くなっていた。
五十男はまた店を出て、元来たラッフルズ・プレイスに戻って、
広場を突っ切り、Ocean Financial Centreにある、
カフェ「PAUL」に入った。
スターバックスでも菓子パンを食べたりしていたので、
パンばかり食べていても、
と考えスパイシー・シーフード・パスタを注文した。
辛い物は得意ではないので、「no chilli」と付け足したところで、
またコレステロールが高いものであることに気が付いて、うんざりした。
結局、好物がこういうものなのだ。
せめてもの抵抗として、飲み物は甘いものやカフェインを避け、
ミネラル・ウォーターを選んだ。
料理はおいしかった。
特にエビは、川海老と思われたが、大きくて食べ応えがあった。
PAULも出ると、ワン・ラッフルズ・プレイスに入った。
東南アジアによくある巨大ショッピングセンターで、文字通り何でもある。
中に入ってしばらく歩いていると、いつの間にか迷ってしまう種類の店だ。
ここで、夕方まで粘るつもりだった。
4
くたくたになってビルを出てきたとき、ようやく17時になったところだった。
まだ日は暮れていない。
目的地に向かうには、微妙な時間だ。
仕事帰りの往来がある時間帯だし、
日が暮れてからでは、客が来出すので、その間隙をついて作業する必要があった。
ここから目的の場所まで、歩いて30分も掛からない。
まだどこかで時間をつぶす必要があった。
ワン・ラッフルズ・プレイスからバッテリー・ロードを横切り、チュリア・ストリートを通って、
サウス・カナル・ロードとノース・カナル・ロードが平行に走る通りに出る。
バーだのパブだのが並ぶ界隈だが、大きな通りだ。
五十男はしまった、と思った。
さりげなく時間をつぶせるコンビニのようなものがない。
これは誤算、と考えながらなおも先へ進むと、Shinhan Bankの中に、
またスターバックスがあるのが見えた。
もうコーヒーはいい。
これ以上コーヒーを飲んだら、クジラみたいになってしまう。
しかし目当てのコンビニは見つからぬまま、交差点まで来てしまった。
信号待ちしながら考える。
さて、どうする?
左に曲がっても、公園があるだけで何もない。
そこで、右に曲がってサウスブリッジ・ロードに入った。
この辺も、パブやカラオケが道路沿い、一段下がったところに
ひしめくエリアで、この時間帯にまだ軒が開いていない店は、
実はもうつぶれている。
そんな世紀末の街を横目にエルギン橋の方向に歩みを向けていくと、
右手にやっとセブン・イレブンがあった。
その隣は、成人用玩具店だった。
角になっているところで、右に曲がればもうボート・キーだ。
セブン・イレブンに入った。
日本資本のこの海外支店は、東南アジア各国に出店している。
中でも、ここシンガポールのセブンイレブンは、何がすごいって
建物と建物の間のほんのちょっとの段差みたいなところにあったりして、
2畳くらいのスペースしかなかったりするのだ。
店員はレジの後ろで文字通り動くスペースもなく、
トイレはどうしているのだろうと思ってしまう。
五十男が入った店舗は、そこまでのミニマム・サイズではなかったが、
狭いことには変わりはない。
店のブランドは日本とはいえ、売っている商品は、現地のものだ。
ポップコーンにブリトー、チョコレート・バーなど、
何という商品名なのか読めないようなものばかり目につく。
そして、包装紙が厳重だ。
輸入の際に海水が入る心配でもしているのだろうか?
タバコは、日本と違って高額だ。ごく一般のもので20ドルから22ドルくらいする
(約 \1,600〜\1,750)。
五十男は特に何も買い物はないので、
一通り見て文明開化したころ、店員がいぶかしむ前に店を出た。
G-SHOCKを見た。
17:50。
よし、もうちょっとだ。
ボート・キーには入らず、サウス・ブリッジ・ロードを少し戻って、
サーキュラー・ロードに入った。
ボート・キーだと、派手に客引きをする店員がいるので、
顔を記憶される恐れがあった。
ボート・キーというのは、川沿いにあって完全にダイニング・スポットだが、
そこから一本内側に入ったサーキュラー・ロードは、
バーや居酒屋が多い。
ボート・キーで夕食を楽しんだ、どちらかというと酒の方が飲みたい客が、
2次会代わりにもう2,3杯ひっかけるのに適した店が並んでいる。
とはいえ、この時間帯ではまだ客はいない。
飲酒しない五十男がそんな風に見えるわけがないのだが、
食前酒を飲めそうな店を探している、中年男のように見えることを期待しつつ、
その辺の通りをぶらぶら歩いた。
頃合いを見て、来た道を引き返して、ボート・キーに通じる路地に入った。
飲食店街の裏路地とあって、
さまざまな酒や食品の匂いと、熱気に満ちている。
ボイラー設備やエアコンの熱気だ。
排出されているのは二酸化炭素だろうか?
これが大気汚染の原因になっているかどうかなど、
自分には関係のない問題は頭から押しやって、
指定されたゴミ容器を探した。
指定されていたのは、入って4つめのゴミ容器だった。
・・・3つめと4つめのゴミ容器が、左右に並んでいる。
どっちだ?
若干、左側のものの方が、奥に入っている。30cmくらいか。
えい、ままよ、相手だって、片方になければ反対側も探すさ。
左側のゴミ容器の下に手をやって、持ち上げようとした。
・・・持ちあがらない。
なんて重いゴミ箱なんだ。
一体何が入っているんだ?
もう一度、渾身の力を込めてゴミ容器を持ち上げようとした。
たっぷり5秒は掛かった。
やっと、5mmくらいゴミ箱が地面から浮いた。
五十男はすかさず手紙を入れた封筒をその隙間から入れた。
ふう、終わった。
その場に尻もちをついて座り込みたい気分だった。
しかし、そうはいかない。
こういうところで気を抜いてもたもたしたりしていると、
誰かに見られないとも限らない。
五十男はさっと立ち上がって、そのまま真っすぐ路地を抜けて、ボート・キーに出た。
ボート・キーに出ると、何食わぬ顔で左折して、まっすぐ進んだ。
目当ての店、「型無」の前で足を止める。
もちろん、「型無」は営業していた。
文字通り日本料理を出す居酒屋で、
五十男はここ数年、贔屓にしていた。
顔を覚えられるかも、という心配も、
年に一度くらいなら問題あるまい、と自分を甘やかして、
ここで夕食にすることにした。
時刻はもう18:30近くなっていた。
彼のペン・フレンドは何時くらいに来るのだろうか。
まあいい、しばらくは仕事を忘れて料理に舌鼓を打つのもいいだろう。
「型無」はまぐろを中心にした料理を出すので気に入っている。
五十男はネギトロ・アボガド・サラダと、マグロ・タルタルを注文した。
む、マグロのたたきがなくなっている・・・
当然だが、ときどき料理が変わるのだ。
料理を待つ間、目の前のシンガポール川を見やった。
川向うに国会議事堂が見える。
シンガポールは華僑の国だが、国会も中国人に占められているのだろうか?
そんなとりとめもないことを考えているうちに、料理が出てきた。
ネギトロ・アボガド・サラダは読んだそのままだが、
マグロ・タルタルは、程よい分量のタルタルにつけたマグロを、
小さく切ったトーストにスプーンで載せてたしなむ前菜だ。
それを口に頬張りながらまたも川の方向を眺めていると、
白人の店員が酒も飲まずに前菜だけ楽しんでいる客を
不審に思ったのか、近づいてきて言った。
「あんた、前にも来てくれたことあるかい・・・?
見覚えのある顔だな」
ち、しまった。また友人か。
「え、そうかい?初めて来たんだけどな」
男の店員はしばらく不思議そうに五十男の顔を見つめた後、
またも言った。
「いやいや、間違いないよ。
思い出せないだけだろう。
何年前か忘れたが、あんたはきれいな女を連れていた。
オレはこういう仕事をしているから、お客さんの顔をよく覚えているのさ。
日本人と東南アジア人の組み合わだから覚えてたんだ。
あの女性はどうしたんだい?」
話がマフアンのことに及んだとたん、
少し顎の筋肉が歪んだことに、五十男自身、気が付いた。
奇妙に思われるかもしれないが、
こんな稼業をしていながら、彼はポーカーフェイスが得意ではなかった。
そこで、不自然に思われないうちに言った。
おや、そうだったか?
実は妻は亡くなってね。
そのショックで楽しい思い出は一通り忘れてしまったんだ。
今は、衝動のままにあのころ通った通りを徘徊して、
記憶の断片をつなぎ合わせているところなのさ。
型無の店員の顔色がたちまち蒼白になった。
口が「しまった」の形に開いたままになっているようにさえ見えた。
彼は急いで謝罪の言葉を口にした。
申し訳ない、そんなこととは知らず、立ち入ったことを聞いてしまった。
この上は、何でも力になるよ。
今日は少しでも楽しんでいってくれ。
五十男は店員のこの申し出を利用することにした。
それで、こう言った。
それなら、私は一人で退屈でもあるし、私がいる間、
手が空く都度、寄って話し相手になってくれないか。
店員はお安い御用だ、と言ってとりあえず、一旦店に戻るからな、
と断って去っていった。
ふう、一難去ったか。
とはいえ、これはうまく利用すれば時間つぶしだけでなく、
かなりいい欺瞞になるかもしれないぞ。
五十男はポーカーフェイスと同じく話術も得意ではなかったが、
形勢逆転というか、ピンチをチャンスに変えることには自信があった。
さっそく、しばらくして戻ってきたこの白人男に質問攻めを浴びせた。
こちらは客だし、あんな一幕があったばかりだから、遠慮はいらない。
要約すると、白人男はシンガポール人ではなく、
5年ほど前、デンマークから移住してきたらしい。
故国ではレゴ・ブロックの工場で働いていた。
そのうちに、子供向けの玩具を作るのに飽きて、旅に出ることにした。
バックパッカーとして、最初はタイから始めて、
ビザが切れないうちに陸路でシンガポールに入って、
何件かバーの店員を経験した後、型無に落ち着いた。
今は、就労ビザを取って働いているとのこと。
日本料理が好きだし、もう寒いデンマークに帰るのはいやだ、
という気になっているらしい。
結婚はしていないようだが、シンガポール人の交際相手はいるようだった。
この国にとどまっているのは、そちらが本心なのではないかと五十男は思ったが、
それは他人のこと。深く詮索しないことにした。
自分より若い男をからかうのに夢中になって、
G-SHOCKを見ると、いつの間にかもう20:00になっていた。
辺りはすっかり暗くなっていた。
よし、ここいらで一度確認に行く頃合いだ。
何気なくポケットに手をやって、
おや、という表情を作る。
たちまち白人店員も五十男の表情の変化に気が付く。
どうしたんだい?
いや、おかしいな、たばこを入れておいたはずなんだが、
なくしてしまったらしい。
もしかしたら、ここに来る途中で落としたのかも。
すぐ戻るから、ちょっと待っていてくれないか?
そうだ、財布を置いていくから、見ててくれ。
いいだろう?
店員はお安い御用だ、と答えた。
こちとらスパイだ。
財布に身元が分かるようなものは入れていないし、
金は靴下の中やブーツのソールの下など、
別の場所にも持っていた。
もちろん、財布と偽名のパスポートは別にしていた。
よく、カードケースとかパスポート・ポーチなるものが売っているが、
あんなものは素人の小道具だ。
貴重品は分散して管理せよ。
これが、セキュリティの基本だ。
5
五十男は元来た路地に、逆方向から足を踏み入れた。
目的がある風に見えるといけないので、
あせらずできるだけのんびり歩いた。
ゴミ容器は少しコーナーになったところの向こうにあるので、
そこまでの歩数を素早く計算して、
対象のゴミ容器が見えてくる直前に、
死角になっているところで一旦止まれるように進んだ。
ダナーのブーツを履いた足が、スリップもせずに音もなく止まる。
五十男は、コーナーを覗き込んだ瞬間、思わずびっくりしてしまった。
前方の、ゴミ容器の脇に屈みこんでいる男がいたのだ。
華奢な体格だがひょろ長く、背は高そうだった。
しかも、若いんじゃないか?
なにやらまるでよいしょよいしょ、とやっているように見える。
男が立ち上がりかけたところで、五十男も首をひっこめた。
首が戻った位置で、五十男は凍り付いたように動けなくなってしまった。
この常夏の国で、凍り付くことなど不可能なのに。
しかし、向こうで立ち上がった男の横顔を、はっきり見たのだ。
コーナーの向こう側にいたのは、彼の血のつながりのない息子だった。
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