■2021年10月5日:スパイ小説の世界へようこそ U- 1
1
ヌラディン(有名な十字軍からエルサレムを奪還したクルド人の武将、
サラディンの売り出し中時代の上官で、ゼンギの息子)は、
イラク北部のとある村の茶屋で、茶をすすりながら空を仰ぎ見た。
10月でもイラクは暑い。昼間はうだるような暑さである。
父のゼンギが、遠いアジアのどこかの国で殉教してから、
(殉教したとは聞いていないが、帰ってこなかったので、
彼は父は殉教したと考えている)何カ月も経っていた。
彼は、生まれはシリアだった。つまり、スンニ派のイスラム教徒で、
今いるイラクは主にシーア派だが、それは単に身を寄せる
組織の拠点がそこにあるから、というだけのことで、
他に特に意味はなかった。
スンニ派は預言者ムハンマドをイマーム(指導者)とする。
対して、シーア派はムハンマドの娘婿であるアリーを初代のイマームとし、
その間のアブー・バクル、ウマル、オスマンの3人のカリフ
(教主、キリスト教でいう法王にあたる)は僭称者としている。
ただ、それだけのことである。
アッラーの神性が変わるわけではない。
キリスト教徒どものカトリックとプロテスタントというのと同じことである。
カトリックとは、主と精霊とキリストは同じもの、つまりキリストは不死であるという立場で、
プロテスタントとはいろいろな流派があるが、とにかくキリストは不死ではない、
としているところが違う、という話と一緒なのだ。
ただ、キリスト教徒どもの場合、それによって相手を異端だと言って、
殺したり戦争にまで発展することがあったようだけれども、
イスラム教徒はそこまで対立することはなかった。
先にいったように、彼らの神は同じだからだ。
それを、キリスト教徒は神は不死だいや違う、と始めるからややこしくなるのである。
これは、信教を利用して権力を得ようとするからそうなるのだ。
しかしそれは、ヌラディンの知ったことではなかった。
はっきり言って、”聖戦”という言葉を使いだしたのは、
キリスト教徒の方が先なのだ。
そもそも、彼の名は、彼の父が、自分の名がゼンギだからというだけで、
歴史上の偉人にあやかって付けたにすぎない。
それでいくと彼は次男で、他に3人の兄弟がゼンギの息子たちと同じようにいたのだが、
他の兄弟は、3人とも異教徒どもとの聖戦ですでに殉教している。
母は、とっくに爆撃で亡くなっていた。
彼の家族は、彼を除いて全て殉教したのだ。
ただ、彼ヌラディンは、家族を殺されたから戦っていたのではなかった。
単にコーランの教えが正しいと心の底から信じていただけだった。
茶を飲み終わると、ヌラディンは立てかけておいたAK-47をとって、
歩き出した。
彼らの隠れ家は、石造りの家だった。
粗末な作りで、村の他の家と変わらない。
村はISの支配下にあったが、
村人は戦闘員ではなく、純民間人だった。
万一外国軍の兵士が訪れても、村人は戦士ではないため、
そう簡単には発覚しないと考えられていた。
晩になると、アダウラに呼び出された。
アダウラは彼らの司令官で、言わば実戦部隊の隊長だ。
そろそろ沙汰があるころだろうとは考えていたが、
今回はアダウラよりさらに上級の司令官、アル・アフダルが来ているという。
もちろん、ヌラディンは今まで会ったこともない。
とはいえ、熟練の戦士であるヌラディンには、
どんな話があるのか、おおよそは見当がついていた。
アダウラと一緒に隠れ家の一室に着くと、
ビン・ラディンや、バグダディといった、お馴染みのとぼけた面構えの指導者とは違って、
眼光鋭い50代の指導者の顔がヌラディンの目の前にあった。
当然だが、アル・アフダルのような指導者が、
普段からここに住んでいるわけではない。
会見のためにやってきたのだ。
「お前の父が遠くシンガポールの地で殉教されたことは、
お前にも既にわかっていることと思う。
彼は私の友人でもあった」
まずは、アダウラがヌラディンに向かってそう言った。
「アル・アフダル師は、お前の父は、輝かしい勝利を導くことは叶わなかったが、
その意思は、お前が継いでくれるものと考えている」
アダウラがそういうと、後の話をアル・アフダルが引き取った。
「お前が殉教を心から望む戦士ではないということは聞いている」
今度は、アル・アフダルがそう言った。
ヌラディンは、銃を持って戦う戦士ではなかった。
そんなことは、十代のいくらでも徴募可能な使い捨ての兵士に
任せておけばいい。
彼はISの最盛期に、シリアで受けた訓練と、その後の戦いでの経験から、
父と同じく、プラスチック爆弾<セムテックス>の扱いに長けていた。
それを使って、いくつもの戦場で成果を挙げてきた。
彼に言わせれば、熟練の戦士が殉教しては意味がない。
戦闘が終わったら帰還し、さらに次の戦闘で
繰り返し異教徒に損害を与え続けるのが、最上の方策である。
「異教徒どもが完全に滅びるまで、私の使命は達成されません」
ヌラディンは背筋を伸ばして、相手の目を見ながら、決然とそう言った。
アル・アフダルがうなずく。
「お前の言うとおりだ。
但し、今回はお前の使命を全うするため、
何名かお前の手足となって働く者を準備してある」
アル・アフダルはそう言ってアダウラの方へあごをしゃくった。
アダウラにうながされて部屋を出た。
会見はこれで終わりだった。
2
アダウラとヌラディンは部屋を出ると、連れだって練兵場に行った。
練兵場は、アッシリアの遺跡があったところだった。
太古の昔、ここは神殿であったと考えられている。
教育を受けているヌラディンからすれば、
人類の知的財産の損傷の恐れにつながる、となるが、
アダウラのような狂信の徒には関心がないのだろう。
それに、ヌラディンはそれを決める立場にはない。
練兵場には、3人の若者がいた。
どう見ても20かそこいらにしか見えない。
「アリー、ジャワリ、リドワンだ」
アダウラがぶっきらぼうに言った。
「彼らは、今後お前の使命の達成を助けるために働く者たちだ」
こいつらは、AK-47をまともに撃つことすらできないだろう。
満足に訓練されていないものたちを寄越されても、
使い捨てにもならない。
「まだ今度の任務の内容をうかがっておりませんが」
ヌラディンは抗議に聞こえないよう、気を付けて言った。
「それは追って知らせる」
アダウラは、例によっていい加減な返事をした。
「それまでに、彼らがアッラーへの務めを果たせるよう、
お前にこの者たちの訓練を任せる」
「どのような訓練を施せば?」
「一人前の戦士になれるように」
そういってアダウラは立ち去った。
今、ISの各グループは、西欧をはじめとする多国籍軍の他に、
クルド人部隊、シリア軍、イラン軍といったイスラムの同胞たる各軍からも、
執拗な追撃・掃討を受け、あちこち逃げ回っている状態だ。
空爆もある。
このような状態で、こんな少年といってもいいような者たちを、
どのように訓練すればいいのか?
ヌラディンにはわからなかった。
とはいえ、命令は命令だ。
逆らえば、ヌラディンの命の保証すらなかった。
ISは、服従しないとなれば、配下でも平気で殺す。
「よし、お前」
ヌラディンは、まずアリーと呼ばれた細長い丸い顔の青年を呼んだ。
「はい!」
呼ばれた青年が、緊張して気を付けの姿勢のまま、一歩前に出る。「銃を撃ってみろ」
そういって、正面の遺跡の壁面を指差す。
距離は20mも離れていない。
アリーと呼ばれた青年は、緊張した面持ちでそちらにAKの銃口を向けて、
腰だめで銃を構えた。
「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)!」
一定の連射音が聞こえたのち、銃弾が放たれた。
引き金は、1秒も引かれていなかった。
銃の操作方法自体は、既に教わっているようだ。
「あほうかお前は。
銃を撃つ前に掛け声をかけるものがいるか。
敵に逃げてくれと言っているようなものだぞ」
ヌラディンはまずはこの青年をそう言って叱った。
銃弾は、壁には一つも当たっていなかった。
後ろで、残った二人の若者がくすくす笑っている。
彼らは自信があるらしい。
ヌラディンは、アダウラからジャワリ、リドワンと紹介された
残りの青年二人にも同じことをさせてみた。
青年二人が同じようにAKの銃弾を壁に向かって短く連射する。
この二人の銃弾は、そのほとんどが壁に命中した。
ふむ、こいつらの肝は据わっているようだ。
ヌラディンはそう評価した。
「早く異教徒どもをこの銃で八つ裂きにしてやりたいです」
二人のうち、ジャワリと紹介された方の青年がそう言った。
背が高く、長衣(ディシュダーシャ)を着ている。
そういえば、ヌラディンも含めて全員が同じ格好だ。
これがアラブ人にとって、普段着なのである。
「そういきり立つな。まだ標的も知らされていないのだ」
ヌラディンはそう言ってなだめた。
彼はこの時点で、3人の役割を決めた。
アリーは、爆薬の搬送も含めた助手。
あとの二人は・・・囮位にしかならないだろう。
どう考えてもアダウラが、戦闘員として役に立たないようなやつらを
寄越したとしか思えなかった。
夕刻になると、4人は村に戻った。
銃は、山羊の肥料小屋の敷物をどかした地下にある、倉庫に保管する。
他国の軍のパトロールが来た際に、銃など見つかったら目も当てられない。
今後のことを思案した。
どんな任務が待っているというのか。
今のISには、他国の軍と戦闘を行うことなど不可能だ。
この村にいるグループとて、先ほどの3人の若者を含めても、十数人がいいところだろう。
20人まではいない、とヌラディンは推測していた。
というのも、のべつ全員が集まって集会するわけではないからだ。
そんなことをしたら、たちまち目につくだろう。
敵は衛星で監視しているのだ。
いにしえのアッシリア人の遺跡で訓練している分には、
遺跡が傷つくから、敵も手は出せない。
彼らの村は、ティグリス川から離れた寂莫とした地にあり、
翌日、ヌラディンは若者たちをニッサンの荷台に乗せ、
さらに荒涼とした地域に連れて行った。
彼らに徹底的にサバイバル術を仕込むつもりだった。
こいつらは、トカゲだって食えないだろう。
3人とも、どう見ても都会の青年だ。
着いた先はほとんど砂漠化した丘で、草木は部分的に
苔状の植物がある程度で、樹木はまばらだ。
もちろん、人などいない。
訓練生たちは涸谷(ワジ)での身の隠し方、火の熾し方、射撃、
などなどをヌラディンから学んだ。
爆弾の使い方も、付近に人がいないのをいいことに、ある程度学んだ。
問題は、水だった。
近くに川などないところで、
大自然の中であり、村もなければ店もない。
おまけに酷暑だ。
水はペットボトルに入れて準備していた。
車を走らせて買いに行けば済むのに、
始め水が手に入らないことに若者たちは戸惑っていた様子だったが、
水の管理が死活問題であることを、
ヌラディンは若者たちに骨の髄までわからせようとした。
夜になると、粥とトカゲを火で炙ったものを食べた。
睡眠は、毛布にくるまって地べたに転がるだけだ。
砂漠地帯とはいえ、夜はかなり気温が下がる。
寝る前に、蠍や蛇がいないか探す。
蠍は、シャンプーを引かっけて殺す。
蛇は、穴を見つけたら、木の枝の先に釣り針をつけた、
即席の釣り竿で穴の中に釣り針を垂らし、
その穴にガソリンを流し込んで、蛇がひっかかって出てきたところを斧で首をはねる。
ガラガラヘビだったら、食ってもいい。
もちろん、小便も大便もその辺でするだけだ。
大便は、匂いが残るので袋に入れて、穴を掘って埋める。
若者は3人とも、不平をこぼさなかったが、面食らっているのは確かだ。
(単に敵に向かって銃を撃つだけだと思っていた。
むしろその時に感じる心理的ショックのことを考えて身構えていたくらいだ。
それが、こんなはずじゃ・・・)
そういうことを3回くらい繰り返したころ、
明らかに3人とも表情がうんざりしていた。
そこで、ヌラディンは3人を前に言った。
「お前たち、ここには何をしに来た?」
「異教徒を倒すためです」
3人を代表して、ジャワリが答える。
「それで、その後は?」
「その後は・・・」
3人とも黙ってしまった。
予想した通りだ。
こいつらは、ISに参加することを、単なる暇つぶしと考えている。
普通なら学校に通う年齢だが、戦争で通う学校などないのだ。
そこで、ヌラディンは3人に向かっていった。
「いいか、お前たち。お前たちの目的が崇高なことはわかる。
しかし、今のお前たちの心根では、敵に銃を向ける前に殺されるぞ。
アッラーのお役に立ちたければ、覚悟を決めろ」
3人とも気まずそうな表情になった。
ヌラディンは、自分自身のことを考えた。
彼は、年齢なら35才だった。
彼は今の3人よりもう少し若いくらいのころから、
父について爆弾作りを手伝っていた。
自分で作った爆弾で人を殺傷したときは20を過ぎていた。
相手はシリア軍の兵士だったが、
ヌラディンは今の彼らと同じくらいの年頃だったわけだ。
考えてみれば、この国は30年以上戦争状態にある。
そんなことを考えていると、彼自身ふさぎ込んでしまいそうだった。
そんなときは、コーランだ。
そうだ、今晩はコーランを読んで、気を鎮めよう。
3
3人を預かって2週間も経ったころ、ヌラディンは再びアダウラに呼び出された。
同じ村に2週間も滞在し続けており、そろそろ危険なのではないかと
考え始めていたところだった。
ヌラディンの経験では、ここイラクでひとところに10日間も居座っていたら危険だ。
所属は分からないが、戦闘機は毎日のように上空を飛んでいる。
いつ爆弾が落ちてきてもおかしくない。
呼び出しは、村の子供をヌラディンが泊っている小屋に訪ねて来さした。
訪ねてくる子供は、いつも違う。
そうやって、何でも知っているものを一人ずつにして、安全策を講じているのだ。
「いよいよ戦いの日が来た」
アダウラは、唐突にそう言った。
会合は、もちろんヌラディンしか参加していない。
後の3人には、ヌラディンから伝えるのだ。
「目標は?」
ヌラディンは、合理的な性格から、つい単刀直入に聞いてしまう。
アダウラが多少いらだった表情を見せた。
「お前も、父上の無念を晴らしたかろう」
今度は、ヌラディンがイラつく番だった。
もったいぶった連中の相手をするのは難儀だ。
だが、黙って聞いていた。
「目的地は、東南アジアだ。
目標は、現地の細胞から伝える。
バグダードから飛行機で行ってもらうが、
4人一度では危険だから、2人ずつに分かれてもらう」
さすがはISだ。
計画の漏洩を懸念して、命令は一系統ではない。
東南アジアか。東南アジアのどこだろう。
ヌラディン自身は、他国に旅行したことはなかった。
せいぜい、作戦でシリアやイランに越境したことがあるくらいだ。
ヌラディン自身は気づいていなかったが、
彼の人生は戦争で半分無駄にしたと言ってよかった。
しかし、飛行機ということは、武器も持っていけない。
そこが不安だった。
爆薬はどこか途中で調達されるのだろうが、
彼は成人してからこのかた、武器を手放したことがなかった。
「出発は?」
「明後日だ。
偽名のパスポートや経費など、道中に必要な残りのものは後で渡す。
支度を急ぐように」
チケットを渡された。
バグダード発、カタール航空のカタールはドーハ行き。
乗り換えになるのだろう、チケットは複数枚あった。
会見はそれだけだった。
ただ、ヌラディンは腑に落ちなかった。
チケットの詳細を今改める気にもなれなかった。
使い捨てにされようとしているのは明らかだった。
父のときもそうだった。
ただ単に、計画があり、遠くに行けと言われただけだった。
あの日、ヌラディンは父を見送った。
楽天的な性格の父は、なに、一旗揚げて帰ってくるさ、と言っていた。
そして、帰らなかった。
ヌラディンはまた暗い気持ちになった。
彼は父の轍を踏む気はなかった。
3人の若者たちは「いよいよですね」といきり立った。
何がいよいよなのか。
こいつらはことの重要さが半分でもわかっているのだろうかと、
ヌラディンはあきれていた。
しかしそんな様子は見せず、てきぱきと必要なものの指示をした。
まず、計画が開始されたら、スマートフォンは使用禁止だ。
今回の任務のために必要なものとして、各自ひとつずつ与えられていたが、
もともと個人所有で今現在使用しているものは、残る友人に預けるなどして、
持って行くことを禁じた。
出発当日に検査して、所持していることが発覚した場合は殺す、と念を押した。
これを聞いて3人はみな震えあがったが、いまどきの若者だ。
このくらいのことを言っておかないと、いざというとき足手まといになる。
むしろ、脅したことによって明日来なければいい、とさえヌラディンは思った。
この日与えられたスマートフォンは、
持っていてもいいし、それでレストランの予約をしても構わないが、
仲間うちでの連絡に使用してはならない。
次の日に渡された衣類は上下別々になっている衣服で、
4セットがそれぞれ少しずつ色や素材を変えてあった。
全員同じような長衣では、明らかに怪しい。
さらに、イスラム圏を出たとき用のものだろう、
Tシャツやジャージィといった、カジュアルな服装も用意されていた。
それらが、4つともバラバラな柄のスーツケースに詰め込まれていた。
普通、自由主義陣営の国に作戦で行くような場合は、
特別にブリーフィングを受けるものだが、
特にこれといって講習はなかった。
観光客に成りすましている限りは、キリスト教国の習慣や
しきたりにド素人でも、怪しまれないものだ。
確かに、やりすぎると目立つのだが、そこだけ気を付ければいいだけだ。
彼らISの戦闘員は、その性質上、たいしたものはないとはいえ、
財産の一切合切を持ち歩いているのだが、
この村にやってきたとき、ヌラディンは村の外の地面に金を隠しておいた。
今、それを取り出す時が来た。
本当にたいした額ではないのだが、航空券を1枚買うくらいの金額にはなるはずだ。
外国に行ったことがないとはいえ、訓練で教えられていたので、
その程度の知識はヌラディンにもあった。
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