■2022年2月1日:スパイ小説の世界へようこそ V-1
1
「何があんたを変えさせたんだ?」
「オレは何も変わっていない。
単に、信義の問題だ」
「あんたはアッラーに仕えているんじゃないのか?」
「オレはそうだが、オレを使おうとしていた連中はそうではなかった」
「どうもよくわからないな。
あんたの上司もムスリムなんだろう?」
「口ではムスリムだと言っていたが、実態は違った」
「というと?」
「連中はイスラム教徒でも何でもない。
自らの野心・虚栄心を満足するために、
オレを始め純真なムスリムを何人も犠牲にしたんだ」
「要するに、あんたは面白くなかったわけだ」
ヌラディンは肩をすくめて答えた。
「好きなように言ってくれ。
今のオレは・・・何かを言える立場にはない」
「まあそう力まなくてもいいんだ。
オレが聞きたいのは、異教徒抹殺、みたいなことを今まで生業にしていて、
信教を抜きにして任務を行う心構えがあるのかどうか、というところさ。
ありていに言って、反対の立場に置かれたわけだろう」
五十男はたたみかけた。
「新しい職をもらったんだ。せいぜい励ませてもらう」
ヌラディンは半ばふてくされたように答えた。
そういうものの言い方が気に食わないんだよ、
と五十男は言ってやろうかと思ったが、やめておいた。
二人は、NIAのとあるセーフ・ハウス(隠れ家)のひとつにいた。
五十男は、まだ納得していなかった。
ムスリムのテロリストが助命され、今彼の目の前にいる。
助命されたこと自体は、助命したのが仏教徒のアドゥルだから理解に難しくはないが、
このテロリストはついこの間まで無差別テロの主犯各だった男だ。
命欲しさとはいえ、簡単に、転向などするわけがない。
上からの命令で一緒に働け、と言われても、釈然としないものがあった。
今回二人が顔合わせをしているのは、もちろん新しい任務のブリーフィングのためだ。
任務詳細の説明の前に、アドゥルから二人で少し話をしろ、とのお達しがあったのだ。
五十男にわだかまりがあるのを感じての沙汰であるのは明らかだ。
まあ・・・反省はしているようだから、仕方ないか。
最終結論としては弱いが、それも致し方ないだろう。
あまり長時間ヌラディンを詰っていても、かえってアドゥルの機嫌を損なうだけだ。
「親睦は深まったかね?」
予想に違わず、アドゥルが姿を現わした。
「まあ、多少はね」
五十男はいくらか皮肉を込めて言った。
「それは結構。
実はヌラディン君は、ISの今後の動向について、
貴重な意見を披露してくれることになっているんだ」
「貴重、というほどのことではない」
ヌラディンはあくまで控えめだった。
「次のテロ計画のことか?
今度はどこで何を爆破しようとしているのか、見当がつくのか?」
ヌラディンはうなずいたが否定した。
「爆破はもうやらないと思う。
2度続けて失敗したからな。
これはイラクにいる間にアダウラが漏らすのを聞いたことなのだが、
連中は自国(ヌラディンはあくまでISが自分たちの支配地域を
国とみなしている、という表現をした)以外での活動の場を広げようとしている、
とのことだった」
「それは誰のことを言っているんだ?」
五十男はじれったそうに聞いた。
「ISだよ」
「ISのどのグループだ?」
「単にISのひとつの細胞、というだけだ。
やつらはアルカイダだの、ヒズボラだの、アブ・サヤフだのとは、
わざわざ名乗らないんだよ。
そんなのは宣伝にしかならない。
計画を露呈するだけで、作戦の成功率が下がる恐れがある」
なるほど。一理ある。
「つまりISは、よその国の活動拠点を強化しようと考えている、
という解釈でいいのかな?」
アドゥルが割って入った。
ヌラディンもうなずいて答える。
「そうだ。
おそらくそういうことだと考えていいと思う」
「それが東南アジアだというのか?」
と五十男。
「東南アジアだけではないよ。
世界中さ。
まあ、我々の守備範囲は東南アジア、特にタイだけどね。
東南アジアには今ヌラディン君が言った、アブ・サヤフの他にジェマート・イスラミア、
ダルル・イスラムなどがあるが、我が国タイにもパッタニ統一解放機構(PULO)があってね。
PULOのやっていることなど、ヌラディン君に言わせれば地元のごろつきにしか見えないだろうが、
ISはそれを何歩も進めて過激思想を浸透させようと考えているのではないか、
というのが彼の報告を元に我々が分析した結論でね」
「それで、連中は具体的には何を?」
「わからないよ。それを探るのがきみたちの仕事さ」
「オレの推測では、拠点だ。
この一言に尽きる。
何をやるにしても拠点が必要だ。
ISは自国では敗退に次ぐ敗退で支配地域を著しく減少させているから、
別の地に拠点を求めている。
さっきアドゥルが言ったこの国のテロ組織だが、
同じイスラムの過激派として、温床にはなりうる。
アル・アフダルは多分そいつらを兵隊としてなら使おうとするだろう。
だが、根本は拠点だよ。
ただ、PULOが言っているような、単なる独立国家ではない。
過激思想をそこから発信することができる場でなくてはならない。
シリアとイラクにISを建てたように。
オレが言いたかったのは、そういうことだ」
ヌラディンが一気に話すのを聞いて、アドゥルも五十男も黙り込んでしまった。
話が壮大すぎる。
どこから手を付けていいのかわからない。
ただ、その思想は理解できた。
資本主義国でも、日本やアメリカのような国は、
金が第一で何でも金次第になっているところがあるのは、
五十男もタイに住んだり、イスラム教国に行ったりしたことがあるから感じている。
実際、現代日本などは金がなければ生きていけない。
金が無かったら、浮浪者になるしかない。
その点タイなど東南アジアのいくつかの国は違う。
タイには働いていない人など大勢いる。
まずは僧侶だ。
彼らは寄付で食っている。
中には自家用ジェットまで持っていて、しょっぴかれて還俗させられたものまでいるくらいだ。
五十男の亡妻の田舎にしたって、現金収入などほとんどなく、基本は物々交換だ。
要するに、生き方に多様性があるということで、
彼らは貧しいことを苦とは考えていない。
むしろ、富裕社会のぎすぎすした人間関係を嫌っている。
・・・という話は、日本にしか住んだことのない人々にはわからない。
他の国のことを知らないからだ。
この話は、昔の軍国主義政権に翻って考えることができる。
まあ今の中国共産党もそうだろう。
民衆は、他の形態を知らないから、受け入れてしまうのだ。
五十男に言わせれば、こいうことを「悪」と呼ぶのだと思う。
西側資本主義を毛嫌いしているイスラム教のような一神教の狂信者たちは、
その思想自体を憎悪しているが、先進国をイスラム教で「征服」するために、
まずは足がかりとして、タイのような自由な発想の国を狙う可能性はあるだろう。
なにしろ、タイのイスラム教徒はオカマやホモと同じように、市民権を獲得している。
「そうすると、とりあえずISが目を付けそうな地域を探せ、
ということなのかな?」
とうとう五十男がそういった。
ヌラディンが心得顔でうなずく。
「しかし、あまりに範囲が広すぎるぞ。
まずは信号とか、通信傍受とか、そういったことが先じゃないのか?」
「私もそう思うよ。
時間的に差し迫った脅威があるというわけでもないし、
またそれも調べてみなければわからないしね。
二人には今日は差し当って意見の一致を見るために、集まってもらったものでね」
アドゥルが弁解がましく言った。
「そういったわけで、二人ともとりあえずのところは思案しておいてもらいたい。
もちろん、こちらから追って指示があった場合は、すぐに動けるようにしておいてほしい」
自分はともかく、タイに来たばかりで保釈人のような立場になってしまったヌラディンには、
行き場もないだろうから、おかしな言い方だと五十男は思った。
しかし、かわいそうかもしれないがそれが現実だ。
仕方がない。
「あんた、どこに住んでいるんだ?」
隠れ家を出るときに、五十男がヌラディンに聞いた。
「今のところはここと同じような隠れ家さ。
場所はわからない。
目隠しされた上で、連行されるのさ」
五十男はアドゥルの方を振り返った。
それでいいのか?
しかし、五十男が口を出すことでもないので、
彼は黙って隠れ家を出ようとした。
そのとき、アドゥルが急に思い出したかのようにポンッと手を叩いた。
「そうそう、ヌラディン君をウボンラチャタニーに連れて行ってもらいたい」
「なぜです?」
ヌラディンが急にもじもじして言った。
「ターイ・オラタイのコンサートのチケットを取ってあるんだ」
はあ?
ヌラディンがこちら側についた理由がわかった。
今日前半話し合ったあれは何だったんだ?
「その件についてもまた後で連絡する」
アドゥルがそう言ったので、五十男はあきれ返ったまま隠れ家を出た。
お約束のように隠れ家の前に高級車がやってきて、
五十男を連れ去った。
彼を載せた車は、五十男の家の近所で、彼を降ろした。
近所、といっても、5分は歩かなければならない。
それ以上近くまで行ったら、わざわざ途中で降ろす意味がない。
2
コニーはエプロンをして、キッチンに立っていた。
彼女の得意料理、シンガポール・ヌードルを腕によりをかけて作っていたのだ。
これはビーフン、チャーシュー、蟹肉を野菜と共に炒めたもので、
大鍋で山盛りに作っていた。
彼女自身はワインを飲みながら、夫の五十男は飲まないので水になってしまうが、
大鍋から麺をよそって食べるのだ。
彼女の夫である日本人の男は、いくら食べても太らないので、
彼女としてはたくさん食べてほしかった。
幸いなことに彼女の夫は特に食べ物の好き嫌いがなかったので、
その点は安心できた。
頭の中では結婚してまだ1年も経っていないが、夫とのこれまでの冒険を振り返っていた。
まぎれもなく、それは冒険だった。
中には命に関わるようなこともあり、女として、それは望ましくはないが、
彼女の一部にはそんな興奮を楽しんでいる部分もあった。
とはいえ数か月前の最後の冒険では、かなりひやりとする局面もあって、
彼女としてはそんなことはもう起こらなければいい、という気持ちはあった。
いずれにしろ故国のシンガポールで、クラブのウェイトレスとして働いていた身には、
想像もつかない暮らしに変わったわけだが、夫の存在を別にすれば、
どちらが良い悪いというものでもないと彼女は考えていた。
彼女自身もオンライン金融で少しは働いていて、生活に困ってはいなかったし、
少なくとも思いやりのある夫と、彼の連れ子である犬のマリーにかしずかれて、
彼女は幸せだった。
彼女の夫は、独自の結婚哲学を持っていた。
曰く、夫婦は平等であって、どちらかが相手に命令したり、
いばりちらしたりすることは不当である、と明確に宣言していた。
二人にはまだ子供はいなかった。
ほどなく、夫が帰ってきた。
彼はぶらぶらとキッチンまで歩いてきて、彼女が料理している鍋の中を覗いて、
わざとよだれをすするような音を立てた。
この料理は彼の好物でもあったのだ。
五十男が今日、どこへ何をしに行ったのかは彼女も知っていたが、
食卓につくまでそれは聞かないことにした。
帰ってきた時の彼の様子から、別に悪い話ではなかったことは察せられたからだ。
「なんだかバカバカしいような話だったよ」
五十男はコニーがワインをひとくち飲むのを見てから言った。
食事を始めようとすると、マリーが来て二人の間の椅子の上に座った。
おこぼれにあずかろうというのだ。
「何が?今日会ってきたという、元爆弾犯の人?」
「ああ。やつが我々の側に寝返ると決めた理由なんだけどね。
さぞかし信教上の能書きを垂れるのかと思いきや、
呆れるような理由だった」
「それで、それは何だったの?」
コニーは調子を合わせて訊いた。
「ターイ・オラタイだよ」
「あなたが好きな歌手の?」
そういう言い方をされて、五十男は肩を落としたが、負けずに次のように言った。
「そう。
ただ我らがヌラディン君も好きだった、というわけさ」
「いいじゃない。
歌で心を入れ替えるなんて、素晴らしいことだわ。
わたしは同じ女だから、そう聞けばうれしいわ」
「しかしねぇ・・・」
「はいはい、それはもう済んだこと。
夕食にしましょ」
夫はまだ愚痴を言い足りなさそうだったが、
コニーはそう言って締めくくった。
そもそも機密上の話なのだが、五十男は妻には隠し事をしない、と決めているようだった。
それも、彼女が夫の好もしく思っている姿勢だった。
もっとも、五十男にしても妻がそんなことを口外しないと知っているから話すのだろうが。
もちろん、本当に機密中の機密、知っていたら危険な類の情報は明かさないはずだった。
寝る前に再度五十男は、ヌラディンをターイ・オラタイの生地、
ウボンラチャターニーで行われるコンサートに、
連れて行かなければならないのだとこぼした。
コニーはあらいいじゃない、と当たり障りのない返事をした。
あなたも行きたかったんでしょ?
「まるでどうでもいいみたいだね」
五十男は訊き返してきた。
コニーの真意を図りかねた様子だ。
機嫌を損ねたかと考えたのかもしれない。
「お仕事のお話でしょう。
わたしのことを気にしなくていいのよ。
あなたがどこに行って何をするのか、話してくれるだけでわたしは幸せなの」
うん、と答えたのか単なる唸り声だったのかわからないが、
五十男の満足そうなうめき声が聞こえてきた。
少しおだてすぎたかもしれない。
まあ、害にはならないだろう。
ついでに、「愛しているよ」とでも付け足してくれれば言うことなしなのだが、
彼女の夫はそこまで器用ではないようだった。
そもそも、夫が仕事で女歌手のコンサートに行くことなど、
コニーには本当にどうでもよかった。
むしろいっしょに行こう、と誘われることの方が怖かった。
同じ女の歌など聴いても、コニーにはちっとも面白くなかったのだ。
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