■2021年4月13日:スパイ小説の世界へようこそ 2
最初の衝撃が去った後、五十男は再びカーブの向こうを覗き込んだが、
すでに彼の息子の姿はなかった。
一旦「型無」に戻る。
「型無」では、白人店員が彼の財布を守って待っていた。
席を離れてから、大した時間は経っていなかったので、
店員には特に不審にも思われずに済んだようだ。
五十男はそろそろお暇するよ、と告げて会計にしてもらった。
白人店員の方でも、思わぬことから会話が弾んだのを、
面白いと感じたか迷惑だと思ったかはわからないが、
ひとまず片が付いてほっとしているようだった。
五十男はボート・キーを戻って歩いてサウス・カナル・ロードに出ると、
通り掛かったタクシーをつかまえた。
マリオットに戻ると、すぐさま部屋まで上がった。
対監視手段には異常なく、部屋などが荒らされた形跡もなかった。
なんとなくいやな予感がしていたので、
明日にはホテルを出ようと判断していたが、
かといって特に脅威が迫っているとは考えられなかったので、
今晩はこの宿に泊まるつもりだった。
時刻は22:00になっていた。
今日は疲れた。
五十男はシャワーを浴びて、
すぐに寝てしまった。
翌朝、五十男は朝食を済ますと、スーツケースを引きずって
ロビーのカウンターに行き、元々は3泊4日で予約していたのだが、
1泊分のキャンセルを告げた。
キャンセル料金として、600ドル(約 \47,700)を現金で支払った。
やれやれ。
本当は、3泊4日でタイに帰る予定だったのだが・・・
五十男は手続きを済ますと、ホテルを出ずにエスカレーターで地下に降りた。
地下に降りると、ごちゃごちゃした地下通路を、
ION(ショッピングモール)の方向に進んだ。
ここから地下鉄(MRT)に乗るのだ。
シンガポールは、地上線の部分もあるのだが、
地下鉄が非常に発達した国だ。
国土としては広くないので、どこへでも地下鉄で行かれる。
シンガポールの地下鉄は、カード式である。
最初にカードを1ドルで買って、券売機でカードにチャージする。
ひと駅ひと駅の料金は、数十セントである。
カードの料金1ドルはデポジットなので、
使い終わったカードは券売機で返却すれば、1ドルは戻ってくる。
ただ、問題もあった。
安いから、非常に混むのである。
券売機の前でも運が悪いと行列しており、五十男のような商売の人間にとって、
人前で長時間停止するのは大きなリスクが伴う。
だが、ここは地下鉄の通路で、ショッピングモールだ。
そもそもすごい混雑なので、中年のおっさんを特定すること自体、難しいだろう。
五十男が券売機に近づくと、ウェストポーチを身に着けた、
人のよさそうな年配のおばちゃんが近づいてきた。
両替してくれるというのだ。
シンガポールの地下鉄の券売機は、額面の大きな紙幣は使えない。
これは単純にセキュリティの問題だ。
券売機が大金を飲み込んでいれば、強盗に狙われる確率も上がる。
五十男も澄まして10ドル(約 \800弱)札をおばんちゃんに渡して、
2ドル札5枚にしてもらった。
シンガポールにおいて感心することがひとつある。
この国は、例えばこの券売機前のおばちゃんの他に、
エアライン・ラウンジの給仕等に、年配の人間を使っている。
詳しいシステムはわからないが、
退職後でも、働ける人間に職を紹介しているわけだ。
シンガポールはタバコも高いし喫煙率は低そうに思われがちだが、
そんなことはない。元が華僑なのだ。タバコを吸う人間はたくさんいる。
子供の頃、学校の教師にシンガポールでタバコのポイ捨てをすると、
捕まって高額の罰金を取られるので、あの国ではタバコの吸い殻など
ひとつもない、と言われたが、そんなのは嘘だ。
シンガポールでも、そこいらじゅうにタバコのポイ捨てがある。
まして、シンガポール人が喫煙しなくても、多くの外国人が訪れる。
ではなぜこの街の通りはきれいなのか?
シンガポールは確かに屋内はすべて禁煙だが、
街中はそこいらじゅうに公共の灰皿が設えられており、
お掃除のおじいちゃん・おばあちゃん、あるいは、マレー系など
貧しい人々が、ゴミ拾いの仕事をしているのだ。
国が職を斡旋しているのだと思う。
働く側も、大した給与にはならないだろうが、
ともあれ飢え死にはしなくて済む。
五十男は地下鉄に乗ると、連結部付近の角になっているところに、
もたれて立った。
座席はトレー状の座席が壁沿いに設置されているが、そこには座らなかった。
通勤時間帯は過ぎていたが、座るのはビジネスマンに譲りたかった。
タイやシンガポールの鉄道内では、飲食は厳禁である。
厳禁なだけでなく、見つかると罰則が待っている。
その代わり、携帯電話の使用は禁じられていない。
大声で電話の向こうの亭主に向かってどなっている華僑のおばちゃんがいた。
昨晩の献立に文句を付けているらしい。
中国人は夫が食事をこしらえる家庭が多い。
シンガポールの地下鉄は、いくつかの系統で分かれており、
それぞれ色分けされている。
五十男が乗ったオーチャード駅は、NS線なので、
ドービー・ゴート駅でCC線に乗り換えて、プロムナード駅で降りた。
たったの5駅だったが、五十男の考えでは、
この国の地下鉄は、このくらいの距離の利用がもっとも適している。
狭い車両で椅子も座り心地が良いとは言えないので、
10駅も20駅も乗ると、かえって疲れてしまう。
まして、小さいとはいえスーツケースも持っている。
プロムナード駅では、そのまま地下通路を通ってミレニア・ウォーク(ショッピングモール)に入り、
パン・パシフィック・シンガポールに着くと、エスカレーターで地上階に上がった。
6
ホテルのグランド・フロアーに出たところで、真っすぐカウンターには向かわずに、
ロビーを横切って一旦アトリウム(バー&カフェ)に入って席に着いた。
すぐに給仕がやってきて注文を取られたので、コーヒーを頼んだ。
コーヒーを飲みながら、泡を食っている尾行者がいないかどうか探したが、
見つからなかった。
大丈夫そうだ。
コーヒーを飲み終わると、現金で料金を払って、
カウンターで空き部屋がないか訊いた。
450ドル(約 \35,800)のデラックス・ルームが空いているという。
但しバスタブはないとのこと。
五十男は構わない、と言って使い捨てのクレジットカードを差し出した。
今回の旅では、今出したカードの他に、もう一枚、
同じような偽名で、1回限りの使い捨てクレジット・カードを持ってきていた。
先に述べた欺瞞用の財布に入っているものとは、別のものだ。
まったく、帰りの航空券も買い直すことになったら、
この分ではカードを現地調達しなければならないかもしれない。
使い捨て、と書いたのは、足が着くから再利用できない、という意味で、
五十男とNIAとの契約では、彼は非正規雇用の諜報員だから、
CIAのような機関の正規要員とは違って、所属先から支給されるクレジット・カードはない。
作戦で出張する場合、NIAから紹介される偽造屋のようなところで、
特別に誂えてもらう必要がある。
当然、支払元はNIAになっているし、発行手数料もNIAに行くようにはなっているが、
自分のカードではないから、無尽蔵に作れるわけではない。
かといって、高級ホテルで現金で宿泊費を払う人間はいないから、
怪しまれないようするためには、カードを使うしかない。
ご利用は慎重に、というわけだ。
手早くチェックインを済ますと、五十男はスーツケースを持って部屋に向かった。
部屋は6階だった。
ポーターがスーツケースを持って行こうとしてくれたが、
小さいので自分で運ぶ、と断った。
ポーターが敵スパイかも知れないのだ。
部屋に入ると、スーツケースを置いて、
まずは部屋の状態をチェックした。
玄関の目の前が大きな窓になっており、
窓の向こうは中庭で、外の景色は見えなかった。
窓は開かないようになっていた。
緊急避難経路には使えない。
ベッドはツインだ。
こういうところは、シングル自体がないのだろう。
部屋自体、玄関から直通で、何かあった場合身を隠すところは、
ベッドの下くらいしかない。
あとは、玄関から寝室に向かう短い通路は細くなっているので、
侵入者があった場合、寝室の壁際に隠れるかだ。
部屋に設置された電話を使うつもりはないので、
盗聴器などの心配はしなかった。
五十男は、スーツケースからノートパソコンを取り出すと、
電源を入れた。
Lenovoの、AMD CPUを搭載するモデルだった。
WiFiに接続してシンガポール航空のwebsiteを表示させると、
予約変更可能なチケットにしていたので、
とりあえず2日後に変更しておいた。
変更可能とはいえ、手数料が発生するので、
予約に使用したクレジットカードに後日請求されるとのこと。
この処理自体はすぐに済んだので、
パソコンは閉じてまたスーツケースにしまった。
スーツケースを置いて、部屋の外に出た。
考える必要がある。
エレベーターでロビーに降りると、フロアのほぼ反対側に移動し、
そちらのエレベーターに乗る。
通常のエレベーターは、ルーム・カードがないと乗っても動かない。
このホテルは階段が4Fまでしかなく、そこが弱点だ。
尾行をまくのに階段を使う、という手が封じられているわけだ。
もちろん、非常階段はあるだろうが・・・
38階のバー、パシフィッククラブで降りた。
エレベーターから降りてすぐ、美しいウエイトレスが来て、
空いている席まで案内してくれた。
一目で華僑とわかる美女で、
中国人は嫌いだが、中国人女性は美しい。
素晴らしい眺望の窓側席も良いが、
背後は監視できないので、隅のソファ席にしてもらった。
入口を見張れる席だ。
バーとはいえ、軽食も食べられる。
五十男はまだ昼飯には早いが、簡単なサンドウィッチと茶を頼んだ。
ソファに深々と座ると、昼間だが奥まった席なので、
背後の棚の赤や緑の照明の明かりが、テーブルの上を照らしていた。
昨晩のことを考えた。
あれは間違いなく彼の養子だ。
体格からして、見間違うはずがない。
この時点で息子に連絡するのは無意味だ。
彼はNIAが寄越した下手人・・・
いや、その手下、ないしは使いを務めている可能性はある。
いずれにせよ、それは聞かなければわからない。
誰に?
注文したものが運ばれてきた。
茶は、中国茶だが何茶だかわからない。
メニューを見て適当に指さしたのだ。
湯呑を鼻に近づけてにおいを嗅いでみる。
悪くない。
ときどき、変な花の匂いがする茶があるが、あれは勘弁だ。
サンドウィッチは、時間が午前だったからか、BLT式のものだった。
一口かじってみて、うん、うまい。
さすが、良い料金を取るだけのことはある。
さて、誰に電話するかだが、やはりNIAだろう。
雇い主に下手人が誰か訊くのは間抜けだが、この場合は仕方がない。
ただ、五十男は電話機を持っていなかった。
今時はスマートフォンと呼ぶらしいが、
あんなものは、明確に使う予定がなければ、無用の長物だ。
一般庶民は知らないだろうが、携帯電話は
電源さえ入っていれば、位置をたどることができる。
もちろん、使うときだけ電源を入れる手はあるが、
SIMカードを持っているだけで、足がかりを残すことになる。
要するに、五十男は、まずは電話機を入手しなければならないわけだ。
ため息をついて目を上げると、カウンター席の向こうから
こちらを見ていた、例の華僑美人と目が合った。
華僑美人が微笑みかけてくる。
昼間だから、他に客もいないのだ。
いかんいかん、こんなところで余計なトラブルを抱え込むわけにはいかない。
息子だけでたくさんだ。
今の華僑美人を呼んで会計を済ませて立ち上がると、
バーを出て行った。
時刻は、既に正午を過ぎていた。
7
ホテルを出ると、また地下鉄に乗ってドービー・ゴートまで行き、
今度はNE線に乗り換えて、チャイナタウンで降りた。
チャイナタウンでは、ユー・トン・セン・ストリートを北東に進み、
フラマ・シティ・センター(ホテル)の手前の
People's Park Centreという、雑居ビルに入った。
雑居ビルといっても、日本人の想像をはるかに超えている。
50x200mほどの長方形の巨大なビルで、ありとあらゆる店が入っている。
中央の吹き抜けになっているホールにはフードコートがひしめき、
外周を取り巻くように螺旋状のフロア構成となっており、
歯医者から床屋、両替商に鍵屋、アパレル、宝石店、携帯電話などの電子機器ショップが、
ところせましと並んでいる。
中国人が好む店のスタイルで、
このビルだけで生を終えることができる仕組みになっている。
多分、パスポートの偽造屋なんかも探せばありそうだ。
五十男は1Fのフードコートは避けて2Fの影になっている方に行き、
携帯電話店を見つけた。
ジャッキー・チェンみたいな顔の店員が、
若干訝しげな目つきを向けてくる。
それはそうだ。こんなところに来る日本人など滅多にいない。
日本でいうと、駅の売店のようなスタンド形式の店で、
テーブルの上に雑誌や菓子を並べるみたいに携帯電話が置いてある。
もちろん、その下は在庫を入れる棚になっているのだろう。
五十男は、ノキアのフィーチャーフォン、いわゆる”ガラケー”のひとつを選んだ。
シンガポール・ドルで65ドル(約 \5,000)ほどだった。
インターネットなど使えなくてもいいのだが、それでも4G対応とのこと。
解像度はQVGA(320x240ピクセル)になるらしい。
偽名のパスポートを出して、
SIMカードと、20ドル分の通話チャージのプリペイドカードも購入した。
店を出て、しばらく歩いて派手なネオンの両替屋の裏にあった、
別の携帯電話ショップに寄った。
今度はサモ・ハン・キンポー似の店主が軒先にいて、
五十男の顔を見ると、「いらっしゃい!」と威勢よく声を掛けた。
五十男は若干面食らったが、
この店でもSIMカードを2枚買った。
電話と一緒に買って、いかがわしく思われるのを避けるためだった。
必要なものを買いそろえると、五十男は建物の外縁まで歩いていき、
飯屋が並んでいる軒先で、席の一つに着いた。
携帯電話を開封していると、店の店員の女の子が近づいてきたので、
麻婆豆腐丼を注文した。
飲み物は断ったので、無料の水らしきものがテーブルにトン、と置かれる音がした。
既に電話の開封は終わっていた五十男は、SIMカードを出して電話に組み込んだ。
こんな中国人だらけのところで電話しても、話すのはタイ語だ。
誰もわかる人間などいないだろう。
かまうものか。
タイとシンガポールの時差は、1時間しかない。
五十男は暗記している電話番号に掛けた。
3回ほど鳴ってから、相手が電話に出た。
呼び出し音が消えてから、実際に通話がつながるまで、
奇妙な音が続いて、2,3拍間が空く。
おそらく盗聴防止回線に接続されているのだろうと思われたが、
それはこちらが心配することではない。
「ハロー」
「こんにちは、アドゥルさん。私ですよ」
「ああ、あんたかね。首尾は上々だったようだね。
あんたからのメッセージを受け取ったと、コンタクトから連絡があったよ」
アドゥルと呼ばれた相手が、すらすらと答えた。
「そのコンタクトなんですが、アドゥルさん。
なんであの男を選んだんです?」
「あの男、というのは?
あんたはコンタクトに直接手紙を渡したのかね?」
五十男から通常の手順とは違うことを行った、
という主旨のことを聞かされ、たちまちアドゥルの声音に警戒の色がにじんだ。
「とぼけないでください。私の接触相手にわざわざ彼を使う必要はないでしょう」
「さっきから彼、彼と言っているが、君の言う彼とは誰なのかね?」
ここで五十男もあるひとつの可能性に気が付いた。
もしかして、アドゥルも彼がコンタクト、と呼ぶ人間が誰だか知らないのか?
「えー、ひょっとして、アドゥルさんはコンタクトが誰だか知らない?」
「知らんよ。なぜかね?」
しまった...
迂闊だった。スパイの世界だ。
アドゥルのさらに上司ですら知らない可能性がある。
「アドゥルさん、すみません。
彼が誰だか知っている人間は誰なんです?」
「ハハハ、きみ、もはや何の話をしているのかわからないよ。
きみも承知しているように、それが誰かなんて、私も知らないんだ。
いいかね、私やきみが知る必要があるのは、
命じられたことだけだよ。
当面の任務は終わったんだ。
帰ってきたまえ」
そう言ってアドゥルは電話を切った。
しまった、そうか。
一泊延長していることも恐らくアドゥルは既に知っている。
ご機嫌斜めにしてしまったことで、そのことを聞くのを忘れてしまった。
これは、帰ってからまた報告するのが面倒だぞ。
要は、五十男がコンタクトの顔を見なければ、
誰も何も心配する必要はなかった。
泥臭いが、スパイ稼業とはそういうものだ。
通話中にテーブルの上に置かれていた麻婆豆腐丼を、
のんびりかき込んだ。
こうなったからには、今さら急いでも仕方がない。
食事が終わると、料金を払って、外の自動販売機で
1ドルの栄養ドリンクを買って飲んだ。
何でもよかったのだが、冷えたものが飲みたかった。
他のものは、銘柄が全て中国語で読めなかったのだ。
栄養ドリンクの瓶をゴミ箱に捨てると、
携帯電話のSIMカードを抜いて、
抜いたSIMカードはジーンズのポケットに入れた。
後で捨てるつもりだった。
そして別のSIMカードを入れながら、歩き出した。
電話の電源はまだ入れなかった。
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