■2021年4月27日:スパイ小説の世界へようこそ 3
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五十男はPeople's Park Centreを出ると、
ユー・トン・セン・ストリートと、ニュー・ブリッジ・ロードを横切って、
クロス・ストリートに入った。
クロス・ストリートからは、交差点でサウス・ブリッジ・ロードの方に左折した。
サウス・ブリッジ・ロードを歩きながら、左右の通りを眺めた。
途中のゴミ箱に、電話機から抜いたSIMカードを折って二つに割ってから捨てた。
チャイナ・タウンは、カオスもカオス、混沌の極みである。
土産物店、軒先で得体の知れない生物の丸焼きを売る店、
中国整体の店、バー、寺、などおよそ一般人には必要ない店が延々と続く。
そこからは、華僑の人々を中心に、どんな生活が営まれているのかもわからない。
太極拳なのかどうかわからないが、中国雑技みたいなものを道端で披露して、
小銭を稼ごうとしている人もいる。
まずもって、このくそ暑い中そんなことをしている根性自体、見上げたものだ。
中国人の所作は、五十男が見ても何をしているのかわからないことがある。
そんなことを考えながら、ネイル・ロードに差し掛かると、
角に目指す店、ティー・チャプターが見えてきた。
この店は観光客向けに本格中国茶を出す店だ。
妻と一緒に来たこともある。
またマフアンのことを思い出した。
店の入り口とは思えない階段を上がって、店の入り口まで行く。
ここでは靴を脱がなければならないので、
札束を入れてある靴下ごしに床を歩くと、妙な感触だ。
一向に客を迎えに店員が現れない、民家風の
中国人らしい店の敷居を歩いていくと、ようやく店員の女に遭遇した。
空いている部屋に案内され、席に着くと、
プーアル茶と、簡単な花巻のようなものを注文した。
花巻は中身が入っているのかどうかもわからない。
店員の女が去ると、五十男は携帯電話を出して、電源を入れた。
電話が立ち上がるとプリペイドカードを出して、
コインでスクラッチ部分を剥がし、
しかるべきコードを入力して料金をチャージし、茶が出てくるのを待つ。
プーアル茶が出てきた。
急須で湯呑に茶を注いだ。
香りは良かった。
不思議なあんまんも食べてみた。
やはり、中身に控えめながらあんこが入っていた。
うまい。
やっと一息ついた。
息子に電話する頃合いだ。
これまた暗記している電話番号を電話機に入力する。
しばらく鳴らしても、息子は電話に出ない。
当たり前だ。授業中かもしれない。
それもあって、ティー・チャプターを選んだのだ。
この店は、茶を急須で出してくるので、いくらでも時間を潰せる。
茶なら、冷めても飲めるのである。
うとうとしてきた。
今日はまた疲れた。
ここまででずいぶん歩いたし、この酷暑だ。
体力も消耗する。
はっと気が付くと、電話が鳴っていた。
G-SHOCKを見ると、あれから30分くらい経っていた。
こんなところでうたた寝したのか?
急いで電話に出た。
「ハロー」
「ハロー、あれ、お父さんだったの?」
「そうだよ。昨日の今日だがな」
息子には3泊4日と告げてある。
今は3日目だから、まだシンガポールにいていいわけだ。
「お父さん普段電話持ってないからなあ。
タイの家にいる時でも、ちょうどパソコンの前にいる時でないと、
タイミングよく連絡取れないんだもの」
五十男は必要な時以外、携帯電話は持ってはいるが使わないので、
息子とのやり取りはもっぱらメールだ。
メールでは間に合わないときだけ、電話を使えば良い。
今時SIMカードなど、どこでも簡単に手に入るから、
息子は父から掛かってくる電話番号が一定でないことには、慣れっこだ。
「一昨日の仕返しで憎まれ口か?」
「ごめんごめん、今日はどうしたの?」
「いやな、そういえばお前は学費がどうのと言っていただろう。
一昨日は、お前を怒るのに夢中でその話を聞くのを忘れていた」
「うん、そうなんだよねぇ。
新しい学期で授業を受けるのに、何でも新しいカリキュラムだというから、
追加で学費というか教材費が掛かるんだって。
でも、英語で書いてあるから、お父さん読めないかもよ」
「そういうことなら、折角こっちに来ているから、
持ってきて見せて説明してくれ。
晩飯をおごるぞ」
「ほんとに?
おいしいもの食べさせてね」
五十男は、自分が宿泊しているパンパシフィック
3Fの、中華料理店「ハイティエンロー」に来るように息子に伝えた。
9
店を出ると、五十男はタクシーでホテルに戻った。
もうへとへとに疲れていた。
それで、時間はだいぶあったのでまずはロビーに電話して、
レストランを予約すると、シャワーを浴びた。
シャワーから出ると、服を着た。
但し、服装は似たようなものだった。
恐らくレストランはエアコンが利いてるだろうから、
長袖は欠かせない。
時間になるまで、パソコンを引っ張り出して
メールのチェックをした。
大したものはなかった。
NIAのアドゥルから、延泊をやんわりと非難するメール。
早く帰ってきて報告せよとのこと。
やれやれ。あと何泊なら雷が落ちずに済むかな。
他のメールは、そもそも友人というものがいない五十男のこと、
ほとんど何もなかった。
しかも、メールアドレスが変わるので、それも不可能な話だった。
NIAとのメールは、先方は正規の職員だから別段問題ないが、
こちらはそうはいかない。
殆ど毎回新しいメールアドレスをこさえて使っている。
連絡には、ある符号を本文またはメール文中に盛り込む。
例えば、4月だったら花の名前、5月だったら河の名前、という具合だ。
これらは、年1度の間隔で、予め決められる。
もちろん、それがメールで届くわけではない。
そんなことをしたら、運悪くその時のメールが傍受でもされたら、
全てパァ、だ。
符号の連絡は、バンコク市内の投函所を使って行われる。
アドゥルと直接会うわけではない。
アドゥルには、勧誘されたときと、
契約を交わしたとき以外、会ったことはなかった。
頃合いになり、五十男はパソコンをしまって支度した。
「ハイティエンロー」には、2F下までエレベーターで降りて、
4Fから3Fまでは階段を使った。
この方が、尾行の有無を確認できる。
もちろん、そんなものはなかった。
世界は安全だ。
レストランの入り口で、予約しておいた偽名を告げる。
チャイナドレスを着た華僑美女が席まで案内してくれた。
息子はまだ来ていなかった。
5分もしないうちに息子はやってきた。
「お父さん!」
五十男は普段は入り口が見える席に陣取るのだが、
このときは予約したため、入り口が見えない席に座っていた。
どのみち店員が案内してくるのだから、
脅威が迫ればそのときわかるだろう、と判断したのだ。
だが、この邂逅の仕方は想定外だった。
店員の華僑美女が、様子を察して微笑んでいる。
お父様が、息子さんにごちそうしてあげるのね。
微笑ましい光景でなかったら、なんだというの?
店としては、そういう場に選ばれて、むしろ誇らしいだろう。
五十男とその息子のノトは、血がつながっていないのだから、
どう見ても親子には見えないのだが、
子供の方が「お父さん」と叫んでいる。
これが親子でなければ、どんな関係だというのか。
「ノト、お前なあ、よりによってお父さんなんて呼ぶなよ」
「何で?」
ノトが面食らって訊いた。
しまった。ノトが親父がスパイであることを知るわけがない。
不審がって当然だ。
まいったな、完全に勘が鈍っているのか?
「恥ずかしいからに決まってるだろう!」
急いで照れたような仕草を作った。
「そっか、お父さんシャイだもんねぇ」
ノトがここぞとばかりに意地悪そうな表情を浮かべる。
ここで店員が注文を取りに来た。
二人は鶏肉のチャーハンと、青椒肉絲に回鍋肉を頼んだ。
ノトのたっての要望で、食前に卵スープも追加した。
店員が去ると、呼びつけた手前、まずはノトの学費のことを聞いた。
ノトはシンガポール国立大学(NUS)に留学生として通っている。
学部は、工学部だ。
ここに入学すること自体、相当な修練が必要だそうで、
自身大学を出ていない五十男にはその難易度が分からなかったが、
彼の言う出来の悪い息子は、学校の勉強に関してはまずまずらしい。
五十男は金を出しただけで、後のことは知らなかった。
日本語は別でその辺の塾みたいなところで習っている。
NUSの校舎(キャンパス、というらしい)は、シンガポール郊外の
クイーンズタウンにあり、都心部から行くのは大変だ。
多分、電車で30分くらいかかるだろう。
五十男も行ったことはなく、息子が通う学校はどこだろう、
と地図で見たことがあるくらいだ。
域内を1日で踏破するのは不可能なくらい、広大な敷地面積を持っている。
料理はうまかった。
シンガポールは各国料理を満喫できる国だが、
やはり中華料理が一番うまい。
当たり前だ。華僑の国なのだから。
「ところで、この間聞かなかったが、孫はどうなったんだ?」
「孫?」
「お前の子供のことだよ。オレから見たら孫だろう」
「ああ、僕の彼女の実家は裕福だから、大丈夫だよ。
金融街の大物なんだ」
「お前の彼女?お前たち、結婚する気はないのか?」
「まだ決めてないよ」
「いい加減にしろ。子供ができたんだろう。
決めていないんじゃない、もう決まっているんだ。
準備ができ次第、結婚しろ」
息子は不服そうだったが、ここは手加減するところではない。
そんな話をしながらも、ノトは料理だけはすべて平らげていた。
食事と同じように五十男からの小言も全部消化してくれればいいのだが・・・
ところが、ここで五十男の方も思い出した。
料理は満点だったが、息子の大学生活の話に引き込まれて、
肝心なことを聞くのを忘れてしまった。
どうする。
もう料理は残っていない。
そこで、この店は出て、またパシフィック・クラブに息子を連れていくことにした。
クラブに着くと、昼間会ったのと同じ女性が出迎えてくれた。
注文も、彼女が取りに来てくれた。
初めて名札を見た。
コニー。
ふむ。中国人でも、海外に住んでいる人々は、
子供に欧米風の名前を付ける。
ジャックとかレベッカとか。
彼女の両親も、ちょうどそんな感じだったのだろう。
ノトは何だか得体のしれないアルコール類を頼んだ。
五十男はオレンジジュースにしておいた。
食べ物も、ノトがクラッカーのようなものを頼んだ。
コニーという名の美女が、五十男の方に屈んで、
自慢の(かどうかは知らないが)笑みを向けながら、メニューをたたんで去っていった。
「お父さん、あの女の人、お父さんに気があるみたいだよ」
若いがゆえに多感なノトが父親をからかった。
「アホかお前は。お前の父親は五十だぞ」
そうは言ったものの、五十男にもわかっていた。
あれはお愛想笑いではない。
女とは、好意がある男にしか向けない笑みをすることがある。
まいったな、彼女、いくつだ?三十を超えてないだろう?
実は敵のハニー・トラップ(色仕掛けを武器とするスパイ、または行為)
だった、なんて落ちが見え見えだ。
ノトが注文した飲み物は、紫色をしていた。
「何だお前、それは。何かの薬物じゃないのか?」
「スリングだよ。他にも話があるって何?」
「昨日の晩、お前は何をしていた?」
「え?昨日の晩?」
痛いとこを突かれたのか、ノトの反応が鈍る。
おうむ返しに質問を繰り返すのは、うしろめたいとき、
人が本能的に行う時間稼ぎだ。
「そうだ。昨日の晩だよ。お前はどこにいた?」
「どこってどこにも行ってないよ?」
「しらばっくれるんじゃない。
ボート・キーに行ってただろう」
「え、なんでそんなこと知ってるの!?」
「お前な、親ってのはな、子供が何をしているのかなんて
全部お見通しなんだよ」
「まいったなあ。ちょっと人に頼まれて行ってただけだよ」
「誰に、何を頼まれたんだ?」
「ときどき、頼まれて手紙を渡したり預かったりしているんだ」
「だから、誰に頼まれるんだ?」
「大学の講師だよ」
「受け渡しの相手は?」
「相手っていうか、置いてきたり取りに行ったりするだけだけど・・・」
「それで、お前はいくらもらっているんだ?」
「1回100ドル」
なるほど。大学の講師というのが誰だか知らないが、
こいつには丁度いい小遣い稼ぎというわけだ。
「お前はいつからそんなことに足を突っ込んでいるんだ?」
「今年になってからだよ」
「今までに何回くらいやった?」
「まだ3回しか頼まれてないよ。
3回目だから、うまくいくと思ったんだけどなあ」
息子のバカさ加減はこの際置いておこう。
大学の講師というのは一体誰だ?
例のコニーという名の華僑美人が通りかかった。
改めて見ると、絶世の美女だ。
「お飲み物とスナックはいかがでしたか?」
女性が男に近づくには、無理のない切り口だ。
これが閉店間近だったら、追っ払いに来たと思うところだが、
まだ、看板の時間ではない。
「良かったよ。
もっとも、酒は息子しか飲んでいないけどね」
五十男も無難な返事を返した。
「お連れ様は息子さんなんですね」
コニーが続けて訊いた。
質問というより、既成事実の確認という感じだ。
「そうだよ」
「その...そのように見えなかったものですから」
コニーが少し身をよじった。
なんとなく、もじもじしているような感じだった。
「そうなんだ。養子なんだよ」
隣でノトがにやにやしながら聞いている。
彼にとっては、父と自分の血がつながっているかどうかなど、どうでもいいのだ。
今はただ、彼の父になった人物が、若い女に絡まれるのを見て楽しんでいる。
コニーは少し驚いた顔になった。
「あら、そうとは知らず、失礼致しました」
「いや、いいんだ。よく言われることでね」
「いいお父様ですね」
コニーは五十男に、というよりはノトの方を向いて言った。
ノトの方はといえば、相変わらずにやにやしながら、
「へへへ」という表情を作っている。
この女性は・・・
当意即妙な応対だ。さすが接客業というべきか。
「そうかな?そういう評価をもらったことは今までなかったね」
「まあ、ご謙遜を」
「それはともかく、今日は世話になった。
美味しかったよ」
「またいらしてくださいね」
「そうするよ」
五十男とノトは、会計をしてクラブを後にした。
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