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■2022年2月15日:スパイ小説の世界へようこそ V-3

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ウボンラチャターニーは、タイ最東端の県で、ラオスとカンボジアの国境に接している。
イサーンと呼ばれる地方で、タイでは東北部に当たる地方を、この名で呼んでいる。
言語的にも、「イサーン語」と呼ばれ、ラオス・カンボジア訛りがふんだんに入る方言として知られている。
タイ語が分かると、ラオス語も少しわかるのだが、イサーン語とタイの標準語はまったく異なる音で、
知らないと全然わからない。

バンコクからバスで行こうとすると、安いのだが何時間も掛かる。
そもそも、バスというのもエアコン付きとそうでないバスと選べるわけではないので、
五十男は飛行機で行こうと言った。
飛行機なら、1時間半足らずだ。

ヌラディンは、バスの不便さに関して、そんなものはイラクでは日常茶飯事だと鼻を鳴らしたが、
危険が伴うわけでもなし、快適な空の旅にあえて反対はしなかった。


ウボンラチャターニー空港は滑走路は1本のみだが、軍民共用の空港で、
F-5Eを装備する第21航空団が本拠にしているはずだったが、
格納庫に入っているのかF-5Eの姿は見えず、待機所にC-130が駐機しているのが見えた。
A-37ドラゴンフライがベースガードとして展示されていた。
ベトナム戦争の際に米軍が置いて行ったものだろう。

二人とも手荷物だけだったので、すぐに空港を出てきて、タクシーを拾った。
コンサート会場は郊外なので、ここでもタクシーで移動することにしたのだ。
五十男は一言だけヌラディンに訊いた。
「負傷した足の具合はどうなんだ?」

「ああ、もうほとんど痛まない。
普通に歩けるよ」

タクシーの運ちゃんには、チケットの裏面の住所を見せるだけですぐに通じた。
一大イベントだ。彼もうわさは耳にしているのだろう。
あるいは、年中行事が行われるイベント会場なのかもしれない。

タクシーに乗っている間、二人とも特に話はせず、景色を眺めていた。
田舎なので、バンコクのような高層ビルはない。
特に市街を出ると、ほとんど田畑の連続だった。


ウボンラチャターニーはターイ・オラタイの生地とあって、
コンサートは盛大な規模になるだろう。

とはいえローカルなタイのことだ。
会場は野外で、欧米や日本のように厳密な警備があるわけでもなく、
何千人もの観衆は簡単な折り畳み式の椅子が並べられた会場に、思い思いに座る。

なんとか席とか、席順にグレードがあるわけでもなく、解放された雰囲気なのだ。
そもそもタイ人の気質的に、束縛されるのを嫌う。
チケットの料金も良心的だった。

貧しい国だ。高額であれば庶民から反感を買うし、
そもそもターイ自身が金儲け主義ではなかった。

ターイの出自はといえば、両親を事故で亡くし祖母(故人)に育てられた経歴を持ち、
若い身空は工場勤務の労働者だったのだが、
美貌と優れた歌唱力をプロデューサーに見染められたのだ。
彼女はまた、コンサート中にステージの端まで来て、
分け隔てなくファンに写真を撮らせたり、握手をしたりする気さくな性格として知られ、人気があった。

いわゆる国民的歌手というやつだ。
ロックかジャズかと問われれば、彼女が歌うような歌は、タイではルーク・トゥンと呼ばれる。
歌謡曲、という意味だ。
五十男も彼女の歌は好きだった。

パリで講演したりしたこともあり、外国人でもターイのファンは大勢いる。
要するに、五十男にはヌラディンがターイの歌に惹かれる理由がよくわかった。


そこは寺院だった。
コンサートはもちろん大盛況で、中央の通路以外、人が通る隙間もないほどだった。

ターイの歌はだいたいが悲しげな曲が多いのだが、佳境に迫ったころ、
ターイは「サンヤー ナー ハーン(舞台前での約束、という意味)」を歌い始めた。
アップテンポの曲で、人気ナンバーなので高確率でエントリーする曲だ。

そういう曲なので、その前の「ナム ター ロン ボン ティー ノーン(涙が布団の上に落ちる)」の時点で、
その曲もテンポがいいため、既に踊っている人たちがいたのだが、
さらに多数の人々が椅子を蹴倒して踊り始めた。
会場のほとんど全員が踊っているように見えた。

五十男は酒も飲まないしダンスをするようなたちではないのだが、
ヌラディンの方は、あろうことか立ち上がって見様見真似で踊り始めた。

おいおい・・・
ま、いいけどな。
せいぜい人生を謳歌してくれ。

それが五十男の正直な感想だった。


「オレは彼女のおかげで目覚めたんだ」
ターイが「サンヤー ナー ハーン」を歌い終わると、ヌラディンは席に着いてそういった。

「何が目覚めたんだか。
ジハーディストが、資本主義の世界に足を踏み入れた途端、
女の色気に惑わされただけだろうが。

あんたらのような人種にはね、そういうやつが多いんだよ。
目覚めた、悟った、心を入れ替えたって。
聞き飽きてるんだよ、こっちは」

「なんだと?」
あからさまに嫌味を言われて、ヌラディンも気分を害したらしい。
目をむいて五十男に食って掛かろうとした。

しかし、五十男はそんな反応はお見通しで、さらにたたみかけた。
「あのな、お前は今、オレが連れてきてやったからここにいるんだ。
そのことを忘れるな」

ヌラディンは黙るしかなかった。
しかし、ターイの次の曲が始まると、すぐに表情を崩して、顔を前に向けて聴き入った。
どうやら、ターイの歌声が怒りを中和してくれるらしい。

こんな連中は動物と一緒だと、五十男は思った。

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コンサートは2時間コースで、終わったのは22:00過ぎだった。
今晩はホテルで1泊だ。

ホテルは空港を少し過ぎたところにある、ペンタハック・ホテルを予約していた。
五十男はホテルの名前の由来を、ヌラディンに告げようか否か考えて、思わず笑みを漏らした。

「何がおかしいんだ?」

不審に感じたヌラディンが訊いた。

「いやな、このホテルの名前なんだが・・・」

「どういう意味なんだ?」

五十男はクスクス笑いながら言った。

「ペンタハックっていうのはな、イサーン語で、標準語だと、ナーラックという言葉になるんだ。
かわいい、っていう意味だよ」

ヌラディンはあっけにとられていた。

「大丈夫かあんた?
顔にデカルチャーって書いてあるぜ」

ヌラディンはさらに困惑を深めるばかりだった。


ホテルは名前からするとラブホテルなのではないかと疑ったのだが、
安宿とはいえ、清潔で、必要最小限のものが揃っていた。
二人は別々の部屋を予約しておいたので、チェックインしてから、
夕食を食うべくもう一度外に出てきた。

ホテルの前の路地を少し歩いて、遅くまで開いている店を探した。
店はすぐに見つかって、大衆食堂、という趣の店の野外席に、
二人は陣取った。

ヌラディンはムスリムであるし、二人とも酒は飲まないのでコーラで乾杯した。
料理は簡単な鶏肉料理とサラダを盛大に盛り付けてもらった。

「いやぁ、今日は楽しめたな」

コーラの最初の一杯を飲むなり、ヌラディンはそんな感想を漏らした。

「あんた、性格変わったな」
それが五十男の返答だった。

「え?」
自覚症状のないヌラディンが訊き返す。

「そろそろあんたの本音を聞かせてもらいたいところだね。
生い立ちとか」

そう言われてヌラディンはやっと思い至ったようだった。

「すまない、あんたにはだいぶ迷惑をかけた。
というのも、オレはムスリム一筋で生きてきたから、
悪い意味ではないんだが、西側社会の娯楽というものを目にする機会が、本当になかったんだ」

「それはわかるよ。
だから戸惑っていたわけだ」

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ヌラディンはうなずいて答えた。
「ああ。オレはシリアの田舎で生まれ育ったんだ。
クラク・デ・シュバリエ(十字軍の病院騎士団が建てた城塞)が見えるところだった。
クラク・デ・シュバリエを知っているか?」

五十男はうなずいて知っていることを示した。
実は行ったことはなくても、かなりの程度の知識はあるのだが、
そんなことをひけらかして話の腰を折るようなことはしなかった。

ヌラディンは続けた。
「異教徒の城塞だが、遺跡だということで残されていた。
春になると、かなりの観光客が訪れたものさ。
周囲は何もないところで、父は早くからイラクで行われている戦争に
首を突っ込んでいたからいなくて、オレは母に育てられた。

外では戦争をしているのに、自分の遊び場の付近では、
見慣れぬ外国人の姿ばかりを目にするので、違和感を覚えたものさ。

生家は農家だった。
オレンジを栽培していたんだ。
親父はいなかったから、兄弟四人で母を手伝ってやりくりしていたんだ。
とはいっても、親父もときどきは様子を見に帰ってきたから、
まったく音信不通というわけではなかった。

そのうちに内戦が始まって、母が街に買い物に行ったときに、爆撃で死んだ。
それで、オレ達兄弟は家業を捨てて、
ちょうどその時またイラクに行って戦争をしている親父に合流したんだ。

同じ戦争だが、イラクのそれは外国軍との戦争だったから、
シリアの内戦とは中身はまったく違った。
あの内戦は、最低の戦争だったんだ」


五十男はうなずいて賛意を示した。

「わかる。
軍事力を国内に向ける国軍など、軍隊ではない。
こっちでも、ミャンマーが同じような状況で、
そういう悲しい話は聞こえてくるんだ」

「イラクに入ってからは」

ヌラディンの話はまだ終わらなかった。

「イラクでは、親父についてオレは主に爆弾の仕掛け方を学んだ。
親父はそういうことが得意だったんだ。
それで当時のオレたちから見て、多くの不信心の徒を殺めたらしい。

オレも親父にならって、結構な数の敵を殺した。

オレの兄弟たちは、あんたたちのいうライフルマンとして戦って、
みんな死んでしまった。
親父も死んだから、残るはオレ一人だけだ」

ヌラディンはそういって締めくくった。
彼の父の殺害に関して、自分も関わっていたことは、
彼は知っているかもしれないが、五十男はあえて口を挟まなかった。


食事をしながら、二人の間にしんみりした空気が流れていた。

先に口を開いたのは五十男の方だった。

「それで、人生に幻滅したのか、それともこのままではダメだと思ったのか?」

「そうじゃないんだ。
確かに当時のオレは少しうしろめたく感じるところもあったかもしれない。
タイに一緒に連れてきた部下も死なせてしまったからな・・・

しかし、そんなオレの心にぽっかり開いていた穴を埋めてくれたのは、
ターイ・オラタイの歌だったんだ」

「へーぇ、それで、彼女の歌にはどんな効果があったんだ?」

ヌラディンは少し考えてから答えた。
「さっきオレが言った心の穴というのは、感情のことだと思う。
オレには、悲しんだり楽しんだりする感情が抜け落ちていたんだ。

心がマヒしていた、といえばいいのか、
それまでのオレは異教徒との戦いに明け暮れていたし、
そうすればアッラーが喜んで下さる、と考えていたんだ。

ところがこのタイで、今日のこのコンサートでさらにその気持ちを強くしたが、
この国では、仏教徒もムスリムも、他の信教徒もみな関係なく一緒に生きている。
ターイ・オラタイと、彼女だけではないだろうが、
そういった歌手のコンサートなんかで、みんな一緒に楽しんで共生している。

それが人間として正しい生き方なんだと、この歳になって初めて気が付いたというわけさ」

「なるほど。
話してくれてありがとう。
これでやっとあんたの複雑な心境が分かったよ。
だけど、だったらあんたは、家にターイ・オラタイを祭った方が良いだろうな」

五十男は最後にもからかいの文句を入れるのを忘れなかった。

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