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Blog in Bangkok@Thailand DVD&movie(映像)
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■2013年9月7日:はだしのゲンと対馬丸

少し前、はだしのゲンが世間で物議を醸した。
私が通った小学校にもこの漫画は置いてあって、皆休み時間に暇潰しに読んでいた。
しかし、果たして学校の図書館に置くべき漫画であろうか?

ゲン閲覧制限、保護者ら不信感「子の判断力を信じたい」
こいつは大馬鹿者だ。何を持って子を信じることにしたのか、判断の拠りどころが無い。
根拠も無く「子を信じたい」というのは、甘やかしているだけである。こういうのを「放任」というのだ。
一体何人の人々が信じていたにもかかわらず、第2次世界大戦は起きたと思っているのか。
子供は、戦争を学びたいからはだしのゲンを読むわけではない。暇を持て余しているから読むのである。

この人たちは、この本の内容について、それが子供に与える社会的な影響に関して詳細に分析したのだろうか?
例えば自分の子供に読ませて感想を得るとか?
よく親が子供に友達を選べと言う話を聞くが、教育とはそういうことなのだ。
このくだらない漫画は、携帯電話は禁じているような分際で、軽率に学校の図書館に放置するべきではない。


私が通った小学校というのは、修学旅行に向かうバスの中で「対馬丸」の映画を見せた。
当時、私は「怖い」としか思わなかったし、その後しばらくは夢でうなされた。
残虐な表現が好みならご希望に沿うが、
主人公だか主人公の仲間だかが船から放り出されて、
死んで海に浮いている映像が、40代が目の前にぶら下がっている私の脳裏に、
その事実とともに磔のように垂れ下がっている。
さらに、同じ市立の中学校は同修学旅行で今度は「火垂るの墓」を上映した。
こちらは帰りだったと思う。大変気分が悪くなった。

はだしのゲン騒動のおかげで、嫌な過去を思い出してしまった。

修学旅行といえば、もちろん楽しい行事である。
バス旅行のバスがビデオ上映機能を搭載しているのはこれもまた当然で、
その鑑賞会に漫画の戦争映画を取り上げるとは、どういう学校かと思う。

私は学校の教師というものに尊敬や親愛の感情など感じたことはかけらもないが、これは彼らの怠慢である。
戦争に関して教育が必要なのは彼らの方であって、
こんなものをわざわざ修学旅行のバスの中で上映するという選択が間違っている。


以前にも書いたが、子供に判断能力は無い。
だからホラー映画を真似して殺人をする子供が出てくるのだし、
映画でも漫画でも構わないが、戦争物を見せられたところで、
「怖い」から「戦争はいけない」以外に感じるものは無い。
それで良いのだろうか?
学校教育なんてものはそれでお終い?

子供が自宅で強盗にナイフを突きつけられたとする。
彼がまず感じるのは「怖い」だろう。
次に自分に危害を加えようとしている人間が「悪者」なのは分かるだろう。
しかし、それ以外に何が分かる?

「戦争はしてはいけない」ことだけ分かれば良いのだろうか?
そんな単純なものではないのだ。


例えば、軍部に唆されて昭和天皇が戦争を起こした日本を止めるために、
参戦した自分達の国を誇らしく思わないアメリカ人はいないだろう。

イギリスの小説家、ジャック・ヒギンズは著書「闇の天使」の中で「歴史は芝居」だと言っている。
これはいささか皮肉な表現だが含蓄にも富んでいる。
戦争とは様々な事情が複雑に絡み合い、交渉や政策の「結果」として発生している。
もちろん戦争だけではないが、それら出来事が織りなす一大叙事詩が「歴史」だ。
原爆だの虐殺だの直接的な事象をそれだけ見せられても、
子供の心が受けるのは「ダメージ」だけであって、何の勉強にもならない。
例えば中国人みたいに、政策で「全部日本人が悪い」と教わればそう思ってしまうだろう。
戦争というのは現象であって、それがどうして起きてしまったのか、
そこのところを詳しく掘り下げて調べること無くして再発は防げない。

極論を言えば、大昔世界を席巻したアレキサンダー大王やモンゴルのチンギス・ハーンを
学んだ子供たちは、「偉大」だという印象は受けても、彼らは「残虐」だったとは思わないだろう。
実際には、彼らは原爆顔負けの悪事を働いている。しかしながら、彼らは罰せられていない。
理由は簡単である。彼らは自分たちが死ぬまで当時最強であったからだ。
罰する力を持った勢力が無ければ、誰も彼らを罰することができない。

第2次世界大戦後のナチス・ドイツの戦犯は、かなり長期にわたって追い詰められたが、
それは文明の発達した現代であったからこそ出来ることであって、
既に歴史に埋没したアレキサンダーやチンギス・ハーンの一族がそんな扱いを受けたか?
恐らくその子孫たちは後から勃興した勢力から受けたであろうが、
そんなことが今から検証できるわけがない。その子孫は世界中にいる。
下手をすれば、何処かの著名な政治家がその血を引いているかもしれない。
誰かが彼らに「あなたたちの祖先はいけない人だった」と言うだろうか?

古代には、動機が良かろうが悪かろうが、そんなことはお構いなく征服したし、征服された。
しかし、それではイカンだろう、ということで現代の情勢に繋がっているのである。
「勝ったものが正義だ」などという、それこそ漫画の世界のたわごとは通用しないのだ。


ここで重要なのは、罪を糾弾する矛先をどこ向けているかである。
それは原爆である。
しかし、原爆を作った人や投下した人、それを指示した人物、被爆者、日本に罪はあるだろうか?
対して、はだしのゲンの作者は何に怒りの矛先を向けているか?
天皇や軍部や当時の人々の考えが間違っていたのだろうか?
悪だったとでも?

原爆というものそのものが、人間の本質である「悪意」を具現化しているのである。
時代が、原爆が生まれる切っ掛けを作ったのだ。その原因は、人間である。
戦争は必要悪ではない。悪とは我々の文明の発達につきものの副産物なのである。
戦争だけではない。環境破壊もそうだ。

罪を憎んで人を憎まず、という言葉の真意はここにある。
天皇や東条英機は確かに悪かったかもしれないが、こんなに何年も過ぎてしまってから彼らを責めても始まらないのだ。
後世の我々だって、当時だったら同じ考え方をしていたかもしれない。
それを否定することは、人間である自分の存在意義を否定するようなものだ。
否定する人間がいたら、シリアでもアフガニスタンでもどこでも良い、紛争地域に裸で放り込んでやれば良い。
はだしのゲンは、当時であったなら画期的な異色作だったかもしれない。しかし、現代には相応しくないのだ。

戦争や歴史というのは、「いけない」だけではない。「いけない」ことだけ分かっても、どうにも出来ないこともある。
だから、ジャック・ヒギンズは言う。「とんだお笑い草」だと。
ただ、大事なことは、例えそうだとしても、我々は過去の人類の過ちを清算するために、
歴史を忘れてはならない、ということなのだ。
そんなことが勝手に読めと漫画を放り出すだけで、子供に伝わると考えているのだろうか?
まして、はだしのゲンからそんなメッセージを読み取れるだろうか?


私が歴史や戦争に関心を持ったのは、両親が教えてくれたプラモデルや本からだった。
こういうことが分かるようになるのは、当たり前のことだが、
自分でも色々と悪さをして、親を困らせたり、そういう社会化期を経て、就職して自分で稼ぐようになって、
世の中の苦労を身に染みて感じるようになる、大人になってからの話である。
要するに、何事もそうだが人間は自分で切っ掛けを見つけない限り、学ばないものである。
学校教師たちは、そういう教育をするべきなのだ。
彼らは、そのプロセスを全てすっとばしていきなり極論だけを突きつけている。

何しろ、はだしのゲンでも対馬丸でも何でも良いが、
これらの作品の「中身」の良し悪しについては何も言わないが、
こういった作品は絵も下手くそだし、何事もオーバーで甚だ悪趣味である。
私の母は宮崎駿が嫌いで、これらはドラえもんと一緒に我が家では禁止されていた。
我が家の推薦図書は「鳥山明」と「寺沢武一」だった。

教師でも政治家でも誰でもいいが、彼らはこんなくだらない教材を使って手を抜かずに、
自分の口から戦争なら戦争で、自分が伝えたい教材をテーマに、歴史を教えるべきなのである。


「はだしのゲン」閲覧制限 大阪・松井知事「神経質になる必要ない」
この「神経質になる必要はない」などと抜かしている何とかいう知事は、こんな奴はただのバカだ。
「何で」「神経質になる必要がない」と考えているのか、自分の考えでしか述べていない。
公平な調査を行った様子が見られない(内容が情けないのでメディアが割愛したのかもしれないが)。
こんな奴が公僕をやっているのかと思うとガッカリする。
私に言わせれば、お前の家に100セット買って置いとけ、という感じである。

「はだしのゲン」閲覧制限 戦争から目を背けるな
戦争から目を背けるなという社説。こんなものは社説でも何でもない。
この社説とやらは論説として全体的に筋が通っておらず特に酷いので取り上げたい。
以下赤字がその全文で、青字が私のコメントである。

国内外にメッセージを送り続ける不朽の名作ゆえだろう。漫画「はだしのゲン」を小中学校の図書館で自由に手に取らせないよう求めた松江市教委への批判が全国に広がっている。
→不朽の名作である根拠なし。具体的なデータを示すべき。さらに、メッセージとやらの意味も不明。
  ここでいうメッセージとは何なのか、分かっているのは本人だけで、完全に自分の妄想に酔っている。

 どんな理由を付けたとしても、原爆の悲惨さを子どもたちに伝えることに後ろ向きだとみられても仕方あるまい。今回の判断がもたらす波紋を、どこまで深刻に考えていたのだろう。
→原爆の悲惨さを伝えるのがはだしのゲンである必要が無い。従って全く深刻ではない。

 きのう市教育委員会議で閲覧制限の是非を協議したが、結論は持ち越された。この際、早急に撤回すべきである。
→上記2点では早急に撤回する理由として不足。根拠薄弱。
  「この際」という言い草が他人事のように聞こえ、不愉快である。

 ここは作品の意義を見つめ直したい。昨年死去した中沢啓治さんが父と姉、弟を原爆で失った体験を主人公に投影し、少年誌に連載を始めたのが40年前のことだ。最終的には被爆9年後までの生きざまを描いた。
→そんなことはどうでも良い。我々の知ったことではない。あんな下手くそな漫画をもう一度見たくないし、
  漫画の作品としての優劣など、単に読み手の好みの問題であって、そんな生き様に誰も関心はない。

 多くの国民が「ゲン」を通じて核兵器の脅威を脳裏に刻んだはずだ。原爆被害の告発だけではない。戦時下の生活や戦後の混乱も庶民の視線で描き、戦争とは何かを問い掛けてきた。
→多くの国民がゲンを通じて核兵器の脅威を脳裏に刻んだはずだと断定する根拠がない。筆者の想像の産物である。
 あんな漫画だけで戦争とは何かを理解できるのは筆者だけだ。

 今やヒロシマの代名詞ともいえよう。その重みを考えれば、市教委側が並べた理屈は、あまりにも空虚に思える。
→本人の思い込みである。末永くよがっていてほしい。

 「過激な描写が子どもにふさわしくない」というのが、これまでの説明である。物語の後半に出てくる旧日本軍の残虐行為を指しているようだ。事務局が単独で判断したとするが、こうした部分を問題視した市民が撤去を求めた市議会への陳情が発端となったのは確かだろう。

 閲覧制限は歴史認識の問題ではなく、子どもの発達に影響を及ぼすためだとする言い分は説得力に欠ける。これまで普通に開架してきたはずだ。一部表現が衝撃的だったとしても、命の重みを考える「ゲン」の教育的な意味は変わるまい。
→閲覧制限に関する言い分には十分説得力があり、残虐表現に関する筆者の捉え方が非常識なだけで、
 閲覧制限はこれまで普通に開示してきたことが誤りと認めた結果の措置だ。従ってそれを追及する必要が無い。
 一部表現が衝動的だったことを問題視しているのであって、ゲンの教育的な意味などと分けのわからないことを書く
 筆者の方こそ変質者の疑いがある。だいたい、ゲンの教育的な意味とは何か。
 その定義が不明確なので、他の人間はその意味が変わるのか変わらないのか判断できない。
 むしろ、変わろうが変わるまいがどうでも良い。
 ゲンは架空の登場人物であってそのゲンに意見させているのは大人の作者だ。
 今時ゲンみたいな生意気な口を利くフケたガキなどいない。
 自己の投影だか何だか知らないが、当時この漫画の作者がそのような思想を持っていた保証はない。
 後から付け足すのは簡単である。その証拠に、後半はやたらと屁理屈になっている。
 「命の重み」とはゲンが子供であるからこそ重みが増すのであり、
 この漫画の場合はそれが仮定にしかなっていないので、ゲンには教育的な意味も何も、意味としての価値がない。

 そもそも戦争とは残酷極まりない。子どもへの配慮を口実に、そこから目を背ける発想があるとすれば見過ごせない。
→そこで何もはだしのゲンに活路を見出す必要はない。
 この一文は特に注意が必要である。この文だけで判断する限りでは、この人物は
 「戦争というのはどの道残酷なものなのだから、残虐な映画でも何でも子供に見せるのは別に構わないだろう」
 という考えを持っていると受け取られかねない。

 市教委による全小中学校長のアンケートでは「ゲン」の閲覧制限が必要としたのは1割だけだった。足元の教育現場も今回の措置には納得していない。
→現在の教育担当者に限定したアンケートであり、調査範囲が狭い。従ってデータとして使えない。
 そもそも今問題になっているのは、はだしのゲンを教師に読ませることが目的ではないので、そんなデータは何の参考にもならない。
 教材としての有用性について言及しているのだとすれば、このような文章を書く人物が教育の現場にいるのだとして、
 それこそ信用できないので論外である。

 いま若い世代は戦争被害を自分のものとして実感できなくなっている。一方で戦争の悲惨さに目をつぶり、正当化しようとする空気もある。だからこそ原爆や戦争の負の側面をしっかり子どもたちに教えるべきだ。もっと「ゲン」を読ませたい。
→「正当化しようとする空気もある」
 文章の意味が全く分からない。
 ここで言う「空気」というのは何で、それがどこに何を根拠に存在すると断じているのか全く分からない。
 「空気」という表現自体が不明瞭であり、文章として不適切。
 
何度も言うが推測でものを言うのは止め、抽象的な言葉など使わないで、理論的に書くべきだ。
 まさしく教師か政治家が使いそうな中身のない言葉遊びであり、大変不快な文章である。
 こんな内容では何も納得できない。
 正常な判断力を持つ人が一般的に見て、内容の質を疑うような漫画による教育を標榜する筆者の人格を疑う。

 広島市教委の取り組みを参考にしたい。本年度から独自のテキストに引用して平和教材として活用している。松江市はもちろん全国の学校も図書室に置くだけではなく、平和教育で「ゲン」をどう生かせるかを考えてはどうだろう。もし作品の表現が過激だと気にするのなら、教員がしっかり説明すればいい。
→広島市の教育に興味があるのは本人だけだ。好きなだけ妄想に耽っていれば良い。
 漫画の表現の過激さは描写であり、教員が文章であろうと口頭であろうと説明で払拭することは不可能だ。
 絵表現は文章と異なり視覚的に脳にINPUTされるものだ。気になるか気にならないか判断が及ぶ前に
 頭の中に入ってしまう可能性が高い。
 この文からは気にするとかしないとか以前に、この筆者はその点に関して全く考えていないのが分かる。 

 図らずも今回の問題であらためて注目が集まり、版元は増刷に踏み切ったという。核兵器廃絶に向けた世論の高まりが求められる中、作品の再評価のきっかけとなるに違いない。
→ただの漫画。どうでも良い。

 政府の姿勢も問われよう。下村博文文部科学相は松江市教委の対応をあっさり容認したが、第1次安倍政権の「ゲン外交」を知らないのだろうか。当時外相だった麻生太郎氏が自らの肝いりで英語版を各国政府に配って核軍縮をアピールした。いうなれば「国家公認」の作品であることも忘れてはならない。
→はだしのゲンを外交に使うなど幼稚である。大人としてみっともない。

まとめると、漫画で教育を論じる次元の低さに呆れてものが言えない。
この人物は根本的に子供を理解しようとしておらず、冷酷で、自分の世界だけで教育を論じており、
その思想にはある種の独善的な強制の要素が読み取れる。
それは、思想的に完全に正反対というだけで、やろうとしていることはファシズムと同じだ。
以上のことからこの人物が教育者であったとしたら、その資格がないと考える。
はだしのゲンは時代錯誤であり、こんなものに込められたメッセージなど、
それこそ子供同士の談話であり、大人が大真面目に議論するレベルのものではない。

この社説を書いた人物は色々やりたいことがあるようだが、そんなことは自分で勝手にやるべきであり、
わざわざ給料を貰って掲載するようなことでもないし、報告の必要もナシ。
一言で言ってマスターベーション。退場。
こんなことがしたければ、自分で横断幕を掲げて駅前で演説でもすればいいのである。


人間には誰にでも自分でやらなければならないことがある。
戦争について後世に伝えるのは、人に言われてやることではない。
そのような姿勢を教えるのが大人の役目なのだ。それは親が子供に教えることであって、
漫画を「図書館に常設しておく」ことや、映画をバスの中で見せることしかできないような連中がすることではない。
日本は「他人行儀」な「お利口さん」になり過ぎたのである。

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関連リンク:

「はだしのゲン」閲覧制限を撤回 松江市教委

「はだしのゲン」はどんな本か



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