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■2021年5月19日:スパイ小説の世界へようこそ 6

15

五十男はアパートに着くと、この日は洗濯機を1回掛けて、
その間に荷造りをしてシャワーを浴びた。

荷物は、前回と同じ小振りのスーツケースに、
前回とは違うASUSのAMD CPUのノートパソコンを、
着替えや洗面用具と一緒に放り込んだ。

当然だが、電話は持たない。


タクシーで空港に向かった。

フライトも順調で、快適なシートで美しいスチュワーデスに給仕され、
五十男は久しぶりに幸せな気分になって、食後少し寝てしまったくらいだった。

実は数年前まで、五十男は飛行機恐怖症で、
揺れるたびに怖がっていたのだが、
マフアンが死んでから、その病気は治っていた。

失うものがなくなったからだろう。

昼過ぎに発つ便だったので、シンガポールには夕刻着いた。


今回の宿は、フラトンを予約していた。
シンガポールのマリーナを臨む高級ホテルだ。

フラトンは、円柱で囲まれた優雅なホテルで、
こういう円柱を元は古代ローマ・ギリシャなのだろうが、
何様式というんだったか?

部屋は5Fで、料金は458ドル。
中の上というところだろう。

いいホテルに泊まれて、気分は上々だ。

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さっそく、この晩に店主の店に押しかけるつもりだった。


その前に、パソコンでメールのチェックをした。
来るまでの間に、状況が変わっているかもしれない。

ところが、入っていたのは息子からのメールだけだった。

”お父さん、エンゲル講師が亡くなったんだって!
殺されたんだって言ってるよ!
お父さんなら何か知っているかと思って”

五十男は、ニュースで見て知っている、
気の毒に思う、と書いて返信した。


20時ごろ、五十男は出かけた。


この晩は、店主の店でたっぷり食事もしてやるつもりだった。

店に着くと、五十男の姿を認めて、店主がウィンクしてきた。

五十男もうなずいて応じて、この日はこの店自慢の寿司を一人前、平らげた。

満腹して店主が空くまで本でも読んで待っているか。
この日は、それほど客がおらず、22時前には店主は五十男の前にいた。

閉店は22時なので、便宜上店は看板にしていない。


「驚いたな。
あんたの顔を一週間以内に二度も見ることなんて初めてだぜ」

「よく言うよ。
連絡は届いているだろう」

「まあな。
次のコンタクトといつ連絡が取れるかわからないっていうのに、
あんたを先に派遣してくる理由が分からない」

「わからないから、先に来て待機してろというのが、
今回オレが受けた指令だよ」

「言う通りなんだが、お互い下働きは辛いよなあ」


「愚痴はいいから、何か新しい情報が入っていたら教えてくれ。
ターゲットのこととか。そういえば、我らがヒーローのターゲットは、
今はどこにいるんだ?」

「さあな。
アラブ・ストリートのサルタン・モスクの地下にでも潜んでるんじゃないのか?」

「サルタン・モスク?冗談だろう?
そんなにわかりやすい悪の本拠地はないだろう」

サルタン・モスクには、五十男も10年以上前だが、行ったことがあった。
地下鉄のブギスで降りて、歩ける距離にある小さなモスクだ。

「冗談じゃねえよ。
あの界隈のどこかのアラブ料理の店が、ハワラの集金所になってるらしいぜ」

「だとしても、撃退したとはいえ、襲われたのに何でまだシンガポールにいるんだ?」

「やっこさんは、もうマレーシアとか、ラブアンとかには、戻れないんだよ。
事件を起こしちまったんだから、いくらイスラム教徒でも、
マレーシアとしちゃ、犯罪者を大っぴらに入国させるわけにはいかんのさ。

イランとかパキスタンなら行けるかもしれないけどな。
バイバルスの出身地はどこか中東だし、
マレーシアはキリスト教陣営寄りだから、同胞とはいえ入れられんのだろう」

「なるほどな。しかしそしたらオレはどうしたらいいんだ?」

「なにが?」

「仕事に取り掛かるまでどうしていればいいのか、ってことだよ」

「いつがあんたの決行日なのかは、今回の場合は毎日オレの店に来るしかないだろうな。
オレが教えてやれる。
電話を持ち歩かないあんたには、それしかないだろうな」

そういって店主はクックックと、さも楽しそうに笑った。

五十男は敗北を認めて、この日は撤退した。

16

翌日、不愉快な気分で五十男は目を覚ました。
店主はいい奴だから、彼の店に通うのは問題ないのだが、
何日になるかわからないのに、毎晩寿司を食べるのかと思うと、
さすがにげんなりしたのだ。

が、ふとひらめいた。
そうか。別に毎晩あそこで食事する必要はないわけだ。
閉店間際に行けばいいだけだ。

そう考えると、五十男は自然と気分が良くなった。


そうか。よし。
とりあえず、トクさんに連絡が取れるように、電話機とSIMカードを調達しに行こう。

その日は、朝食を摂り終わってもまだ店が開くような時間ではなかったため、
広大なホテル内をぶらついて2時間ばかり時間を潰した。


フラトン・ホテルは、前回初日に五十男の息子のノトが悪ふざけをした、
ボート・キーの目の前にある。

息子には、当然だが連絡する必要はないだろう。
それこそ、こんな間隔でシンガポールに舞い戻ってきたのが知れたら、
父親はどんな仕事をしているのだろうと勘ぐってかかるだろう。

まして、あいつの小遣い稼ぎを斡旋した人物は死んだのだ。
もうかなり危ない橋を渡っていると言っていい。


五十男はホテルを出る前に、どこに行こうか考えた。
シンガポールには大きな電気店は2軒ある。

Sim Lim Squareは、地下鉄ブギス駅の近辺にある。
ここはタイでいうパンティップ・プラザで、シンガポールのオタクが集うビルだ。
PCパーツも豊富に売られている。

もう一か所、FunanDigitaLife Mallは、シティ・ホール駅を降りてすぐのところにある、
どちらかというとカジュアルなITビルで、携帯電話やノートパソコンが主となる。

五十男は、彼自身PCパーツが大好きだったので、
Sim Lim Squareに行ったら時間を忘れてしまうだろうし、
一方でもう10年以上行っていなかったので、
むしろPCパーツ店は衰退している恐れがあった。

よし。今回はFunanにしておこう。

行き先を決めると、ホテルを出て、FunanDigitalife Mallまで歩いた。
この判断は失敗だった。
直線距離で500m程度の距離なのだが、暑くて汗が噴きでてきた。

ぜいぜいいいながら買い物を済ますと、建物を出て少し歩いたところにある、
ラッフルズ・シティ・ショッピング・センターに入って、
中にあるスターバックスで一息ついた。

ふう。歳には勝てないな、と思いながら時間を確かめると、まだ11時だった。
昼飯には時間が早い。

今日はどこで夜まで時間を潰そうか?
そんなことを考えていても、埒があかない。

コーヒーを飲み終えると、店を出て、ぶらぶらとビルの中を歩いた。
スワロフスキーの店の前で、きらめく宝石が目に留まって立ち止まった。

そういえば、マフアンが死んだとき、彼女の持ち物は
みな家族の人たちに分散して持ち帰ってもらったのだった。

オレには、もうあんな時間は訪れないだろうな。


「誰に買ってあげようとしているのかしら?」

振り向くと、コニーが立っていた。
にこにこしながらこちらを見ている。

バカな。
オレは絶対に、絶対に、偶然なんか信じないぞ。

五十男の表情がバツが悪そうだったのか、
コニーが続けて尋ねた。

「息子さんは?」

「あいつは今日は学校なんですよ」

コニーが驚いたような表情になった。

「あら、旅行でいらしているんだと思っていました」

「旅行だよ。私はね。
息子は留学生なんだ」

コニーの表情がなるほど、という形に変わった。

見れば見るほど美しい女性だ。
その秘密は、表情が豊かだからだろう。


今日のコニーの服装は、職場でのネイビーのスーツ型の制服とは違って、
黄色のプリーツのスカートに、上は淡い色のTシャツだった。
ショルダーバッグを肩から下げている。

女学生みたいだ。
化粧もしていたが、勤務中のように完璧な化粧ではない。
それがかえって彼女の華僑系の顔立ちを美しく見せていた。

髪は、クラブでは結い上げていたが、今日は真っすぐに垂らしている。


「まだパンパシフィックにいらっしゃるの?」

彼女には、一旦タイに戻ったのは伏せておこう。
おそらくそこまで話す必要はないだろう。

「いや、宿は移ったんだけどね。
フラトンですよ」

「まあ、裏切ったのね」

コニーが片手を口元にやって笑いながら、
わざとうらめしそうな表情を作った。

まずい。とろけそうだ。
五十男は応戦するために、話題を変えた。


「いや、それにしてもすごい偶然だね。
日中にこんなところで会うなんて」

「日中に遊んでいるのか、という意味でしたら、今日はお休みなんです」

迂闊だった。ここはパンパシフィックに近い。
この辺に住んでいるのかどうかは別として、
職場に近いから、よく知っているわけだ。

して、今日は何をしている?
ショッピング・センターにいるのだから、ショッピングだろう。
五十男は妻に先立たれてからというもの、
女には奥手だったが、そこまで口にするほどバカではなかった。

だいたい、彼女は何の用があって五十の男を前にここまで相手をしているのか?
職務上の義務感であったら、挨拶だけして通り過ぎているだろう。

彼女は、自分は今日は休日だ、と五十男に向かって宣言したのだ。

すなわち、こういうことだ。


「それなら、食事でもご一緒にどうです?」

五十男はよどみなく答えた。
こういうときは、余計なことを考えずに、
単語帳にある言葉を引っ張り出すのが秘訣だ。

コニーの顔が満面の笑顔になった。

よし、ビンゴだ。

「ええ、いいですね」


バカめ、何が”よし”だ。
たいがいにしろ、と叱りつけるもう一人の自分を組み敷いて、
五十男はどこの店にするか考えた。

といって、こういう場合、二人でタクシーをつかまえて
どこかしゃれた店に行く、というのは難しいだろう。
普通の女性なら、警戒する。

五十男が思案しているのを見かねてか、コニーが助け舟を出した。

「実はわたし、ブロトツァイトでランチにしようと思っていたんです。
このモールの中にあるから」

「お、さすがだね。
じゃあその提案にのるとしようか」

コニーはフフフ、と笑って賛意を示した。


ブロトツァイトは、スワロフスキーの店の本当に隣みたいなところにあった。
この店は、五十男もガーデン・バイ・ザ・ベイの中にある店に、
昔マフアンと一緒に入ったことがあった。

ドイツ料理の店で、ソーセージがうまい。

「わたし、アルコールをいただいていいですか?」

「うん?いいよ、いいよ、どうぞ」

「じゃあビールをください」

マジかよ。

五十男は、自分は水を頼んだ。どうも、他のものは受け付けられそうにない。

料理は、コニーはモツレラ・サラダ、五十男は、バラマンディ(スズキの一種)と
パンとパスタと蒸し野菜のセットを頼んだ。


ビールが出てくると、コニーはかなりの量を飲んでから、プハー、とやった。

失敗したかな、と信じられない思いでいた五十男の顔を見て、
コニーはアハ、すみません、と言った。

五十男は、「いやいや、妻が生きていたころは、いつもの光景だったよ」と言った。

とたんにコニーは顔面蒼白になった。
とはいえ、五十男としては、二人の関係が今後どのような方向に向かおうと、
このことは早めに明らかにしておいた方が、きっといい結果を生むと判断したのだ。

話の流れでつじつまが合わなくなって後から発覚するより、
事前に明確にしておいた方が、前向きに生きていると示すことにもつながるのではないか。

五十男の顔は笑っていたので、コニーも安心したようだった。
それに、彼女は五十男の養子であるノトも見ている。
なんとなく、五十男に妻がいないこと自体は、察していたのだろう。


「そうだったんですか。奥様はいつ・・・?」

「もうすぐ5年になるよ」

「お子さんは、奥様の連れ子さん?」

「違うよ、あの子は完全に私たちとは血のつながりがない子でね。
妻が私と結婚する前から面倒を見ていた。
彼の両親は互いに別の相手を作って彼が赤ん坊のころ、蒸発したんだ」

「まあひどい話」

「タイに住んでいる話はしたかな?
タイ辺りではよくある話なんだ。
きみならわかるだろう」

「ええ、聞いたことはあります」


五十男は、コニーの口調が店であった時と比べて、
丁寧ではあるが格段にくだけていることに気づいた。

気を許しはじめた、というより、
店の外では対等の立場、単なる男女、という意思表示だろう。
改めて彼女のプロ意識に感心した。

そういえば、自分たちは店にはどんな二人に見えているのだろう?
恐らく親子と言っても通じるくらいの年齢差だ。
それとも、店の店員もコニーと同じく接客業だ。
プロに徹して、気にもしていないのだろうか。

シンガポールなど、金融街で財を成した大物で、
妻に先立たれた人間が、若い妻を再婚の相手に娶ることくらい、あるだろう。
不思議でもなんでもないのかもしれない。

料理が出てきた。
二人とも、満足して食べた。
こういうしゃれた店だ。
味が悪かったら話にならない。


食べ終わって気が付くと、五十男はコニーが自分を見つめているのに気付いた。
目が合うと、彼女はまた笑った。

いやあ、美しい。
五十男も思わず笑い返した。

何をやっているんだ、オレは。
こんなんじゃ、ノトに会わせる顔がないぞ。

そろそろ、こっちからも質問していいだろう。


「ところで、きみは普段仕事は何時から?」

コニーが予期していたかのように答える。

「シフト制ですから、変わりますけど、
わたしはだいたいお昼過ぎに出勤して、店じまいまでですね」

「へえ。パンパシフィックで働く前は何を?」

コニーはその質問に驚いたかのように、
今日会った時と同じように、口元に手をやって笑った。

「もう10年近くパンパシフィックで働いているんですよ。
クラブに配属になってからは、3年目ですけど」

そうか。しまった。

パンパシフィックのようなところは、アルバイトを雇ったりしない。
大学を卒業して正社員として入ったのだろう。

とすると、歳は32というところか?
見かけより上なんだな。


考えを見透かされたのか、コニーにカウンターパンチを食らった。

「今、わたしの年齢を計算しているでしょう?」

パンチが見事にあごをとらえて、五十男はよろけそうになった。

「い、いや、きみはシンガポール人なんだろう?
ご両親は何を?」

「そう、わたしはシンガポーリアンです。
もう何代目かわからないくらい。
父は金融街で働いています」

働いています...ということは、現役だろう。
彼女の歳が32歳ということは、そろそろ引退か?

「お母さんは?」

「母は...驚かないでくださいよ。
わたしの母は父と結婚する前、彼女はノース・カナル・ロードで、
燕の巣を売る露店の娘だったんです」

「それを・・・お父さんが仕事の帰りに立ち寄って、見初められた?」

「そうなんです!」

そう言って、コニーはまた口元に手をやって笑った。

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「それは驚きだね」

「でしょう?」

いや、こういう知的な女性と会話するのは心地いいものだ。
できればまだまだおしゃべりしていたいが・・・

ここはバーじゃない。レストランだ。
長居できる店ではないから、そろそろ出なければいけない。

時間を稼ぐには・・・


「それはそうと、今日はこのあとどうするつもりだい?
ショッピングだったのだろう?」

「そうです」

「服でも見に来たのかな?」

「まあ、そんなところ」

「選ぶのを手伝ってあげよう。
これでも妻のショッピングには長年付き合った経験があるからね」

「ありがとうございます。
それなら、お願いしちゃいます」

「ここの会計は済ませておくよ。
お手洗いは?」

美人は、化粧直しを欠かさないだろう。
そういう時間を与えるのも、男の裁量だ。

レストランの支払いについては、コニーはいいんですか?と言いつつ、
大人しく引き下がった。

職業柄、引き際を心得ている。
付き合いやすい相手だ。

そういえば、お相手はいないのかな・・・?

17

そろって店を出た。
さて、ショッピングといっても、どこに行くんだ・・・?
と考える必要はなかった。

二人とも、はす向かいのサンテック・シティの方に足が向いた。

「何でも決める前に思案なさるのね」
歩きながらコニーが言った。

「え?」

鋭いな。
五十男が自分では考えつきもしないようなところを突いてくる。
やはり、いくつになっても人生の伴侶は必要なのかもしれない。

「ほら、また考えてる」

「まいったな、かなわないよ」

「いいんですよ、思慮深い人って好き」

「え?」

思わず立ち止まってしまった。
あまりにも、あっさりとした告白だった。
コニーは構わず先を進んでいる。

五十男は、車にクラクションを鳴らされてしまった。
気づくと、横断歩道のど真ん中で、
信号機の色はもう赤に変わっていた。

慌てて横断歩道の残りを走って渡った。

渡った先で、コニーがこちらを振り返って笑っていた。


二人は、サンテックシティの中をそぞろ歩いた。

サンテックシティは、かなり広いショッピングモールだ。

コニーは五十男を連れて、さまざまなブティックをのぞいて、
結局、ブラウスやスカートを買っていた。

五十男は、コニーはそれをどんなときに身に着けるのだろう、と想像した。
彼女にはいい相手がいるのだろうか・・・?

五十男は、ここでは彼女の買い物に対して、
自分が買ってあげよう、とは申し出なかった。

その方が、恐らく彼女の誇りを傷つけるだろう、と判断したのだ。
案の定、彼女は当然のように自分の財布の中身を減らしていたし、
なんとも思っていないようだった。


サンテックシティは、中央に富の泉と呼ばれる噴水があり、
モールの中から眺められるようになっている。

二人は、欄干に寄りかかって、それが見えるところまできた。

「あの噴水は、周りを3周すると、願い事がかなうと言われているんです。
知っていました?」

と、コニー。

「知っているよ」

「行ってみます?」

「いいよ。きみは何をお願いするのかな?」

「うふ、内緒です」

とはいえ、噴水に触れられるところまで降りていくのは、実は難儀だ。
苦労して噴水の水が掛かりそうになるところに着くころには、
五十男は息が切れていた。

「大丈夫ですか?」

「はは、この歳にはきついよ」

二人で歩きながら回った。
手をつないで回っているカップルがいたが、五十男はそこまではしなかった。
まだ、そこまでするのは図々しいというものだろう。

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回り終わって、二人は再び欄干のところに戻ってきた。
夕刻だった。

さすがに二人とも一息つきたいところだった。

学生のデートなら、この辺で終わりだろう。
だが、五十男はコニーが名残惜しがっている様子を感じた。

「夕食にするかい?」

「お昼にいっぱい食べたから、わたしお腹すいてない」

もはや完全に彼氏に対するような口調になっている。

「でも、アルコールなら入る?」

「アハ、正解!」


アルコールを飲めるところに行こう、という意見の一致を見て、
二人はタクシー乗り場に向かった。

タクシーを待つ間に、コニーが五十男に訊いた。

「どこに行きます?」

「クラーク・キーの「FORBIDDEN」なんかどう?」

「何でそんなお店を知っているの!?
お酒も飲まないのに」

「妻と行ったことがあるんだ」


タクシーに乗って、目的地に向かう短い間、
コニーは半ば苦虫を押しつぶしたような、
恨めしそうな表情で五十男の顔を見つめていた。

五十男は、当然のことにその視線に気が付いていた。
彼女は内心、多分こう言っているのだろう。
今でも奥さんのことを愛しているの?


クラーク・キーは、シンガポール随一のナイトスポットだ。
シンガポーリアンのみならず、様々な観光客が
観光に、酒をひっかけに、やってくる。

そのため、バーの店員の対応は、ぞんざいだ。
けれども、欧米人などは、かえってその方がサバサバしていて性に合うらしい。

五十男とコニーは、タクシーを降りると「FORBIDDEN」まで1,2分歩いた。
コニーは目の覚めるような美人であるため、
五十男はそこいらじゅうから好奇の視線を浴びていた。

あんな美人を連れて歩ける幸運な男は、どこのどいつだ?

コニーの格好も、夜のバーを歩くには、
少々場違いな服装だった。

それはそうだろう。
家を出たとき、彼女の予定は五十の男と連れ立って飲みに行く
スケジュールにはなっていなかったに違いない。

「FORBIDDEN」は、何を根拠にしているのか五十男にはわからなかったが、
インドシナがコンセプトの店だ。

それで、得体のしれない彫像が店の両脇を占めていて、
店内はオカルトっぽい雰囲気を漂わせている。

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席に着くと、コニーは「リバー・ゾンビー」なるカクテルを注文した。
なんだそれは。

五十男はアイスティーにしておいた。

コニーにはノンアルですまないね、と断っておく。

コニーはいい加減機嫌を直したようで、うつむき加減に笑って首を振った。

構わないわよ。

彼女も結構疲れているようだった。


コニーの飲み物が届いた。
黄色い液体が入ったグラスの頂上に、パイナップルが刺さっている。

どんな味の飲み物なんだろう?

「わたし、普段は男の人とお酒なんか、飲まないんですよ」

「一人のときは、飲むのかな?」

コヒーは首を振った。

「じゃあ、いつ飲むんだい?」

「女友達とか」

ああ、そうか。


「飲んでみる?」

コニーがアルコールのグラスを差し出して訊いた。

彼は首を振るった。
そんなものを飲んだら、明日起きれなくなっちまう。

そこで思いだした。
しまった、店主の店に行っていない。
時間はまだ間に合うが、まさかコニーを連れて行くわけにはいくまい。

幸いなことに、電話を持っていた。
電話して店主に尋ねる手はある。

「すまないが、ちょっと電話させてくれ」

「お仕事ならOK。
女の人だったら、許さないわ」

驚いたな。打ち解けてくれたのはうれしいが、
もう所有欲の発生か。
たったの一日でも、これだけ長時間いると、
女性とはここまで大胆になるものなのか。

「仕事だよ。
その証拠に、ここで電話を掛ける」


五十男が電話機の裏ブタを開けてSIMカードを入れているのを、
コニーは訝しげに見ていた。

その表情は、まるでこう言っているようだった。

”なんで今SIMカードを入れているの?
携帯電話の意味をなさないじゃない”

店主の店に電話すると、店の従業員が電話に出た。

五十男のブロークンな英語が通じない。

まずい、この電話には通話料金のチャージを入れていない。
何分くらいなら話せるんだ・・・?

コニーが助け舟を出してくれた。

「わたしが代わってあげましょうか?」

「いやいいよ、大丈夫だから」
五十男は慌てて断った。

「大丈夫じゃないじゃない、マスターに代わってもらえばいいんでしょう?」
さっとコニーの手が伸びて、電話機を五十男の手からひったくった。
もう酔っているのか?

コニーが電話機を耳に当てて、もしもし?と言うのと、
店主が電話を代わって「もしもし?」と言うのが同時だったらしい。

話が通じるわけがない。


コニーから電話機を返してもらって、
五十男が店主に向かって「もしもし」と呼びかけた。

「今の女は誰だ?」

「誰だっていい」

電話の向こうで店主がにやついている顔が見えるようだ。

「当ててみようか。
今日来れなくなったっていうんだろう。
原因は女かな」

「憎まれ口をきかないでくれよ」

「心配するな。今日は何も進展なかった。
今日のところは、あんたはここに来れなくても大丈夫だ」

五十男がほっとした息遣いでも聞こえたのだろうか。
店主はあんたもいい歳なんだから、ほどほどにしときなよ、と言って電話を切った。


五十男はため息をついて電話機を下した。

目を上げると、コニーの表情は訝しげなままだ。

「そういえば、オオシマさん(五十男が偽名の一つをコニーに伝えた)、
お仕事は何をされているの?」

「ヒューマンライツウォッチングのようなものさ」

コニーはきょとんとしている。

「HRWではないんだが、同業者さ」

コニーは気持ち首を傾げた。

「ボランティア?」

「一般の人にはそのように見えているだろうけどね。
財源はあるんだよ」

「どこに?」

「基本的には寄付さ。世界中から寄付があるよ」

「それで、オオシマさんの仕事は具体的にはどんなことなの?」

「わかりやすく言うと、人権保護だね。
突っ込んだことには、あまり答えられないが。
わかると思うが、我々の活動を快く思っていない人や団体、組織は多いからね」

五十男は予め用意してあったレジェンド(スパイが身分を偽るために用意しておく偽装身分)を、
すらすらと答えた。

「それで電話機を常時使えるようにしていないわけね。
さっきの人はどこかのお店の人でしょう?
彼も同業者なの?」


細かいことを訊かれても平気なのだが、あまり突っつかれても面倒だ。
ここいらで矛先を交わすようなことを言わないと。

「きみの方こそ、お休みはいつといつなの?」

五十男が自分のことを聞いてきたことに、コニーは気をよくしたようだった。

この男は、どうしたら自分と会えるのか、気にしている。

「月曜日と木曜日がお休み。
金土日はお店が混むから、休めないの」

なるほど、今日は木曜日だ。

「でも、月曜日はだめ。
月曜日は殆どグロッキー」

もう五十男が次回のデートを申し込む前提で話している。

五十男の視線に気付いて、急に恥ずかしくなったのか、
コニーが下を向いた。
気のせいか、頬が赤くなったような?


飲み物が切れて、二人はお代わりを注文した。

この辺で反撃に出るべきと考えたのか、コニーが話題を変えてきた。

「息子さんが留学していると言っていたけど、大学はどこ?」

「NUSだよ」

コニーがびっくりした表情になった。
自分は違うらしい。

「まあ、すごいお子さんね」

「そうかな?」

「そうですよ。
わたしなんか入れない」

そう言って苦笑する。


「大した学校には見えなかったけどね」

「行ったことがあるんですか?」

「うん、2,3日前にね。
息子が通っているところがどんなところなのか、見ておこうと思ってね」

「あそこの博物館にも行ってみました?」

「いや行ってないよ。
通りかかりはしたんだが、何しろ暑くて」

「あそこの博物館は有名なんですよ。
恐竜の化石があったり、大きなワニの剥製があったり。
男の人なら絶対喜ぶようなところ」

「じゃあ次は一緒にそこに行こう」


コニーは一本取られた、というように大きく口を開けて笑った。

「でも、オオシマさんは連絡取れないじゃないですか」

「僕がきみの店に行くよ」

「博物館はそんな時間には開いていません」

「そうじゃない。
会ってそれから日にちを決めればいいだろう?」

「ああ、そういうことなら。わかりました」


二人の話題は、尽きることがなかった。

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