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■2021年5月26日:スパイ小説の世界へようこそ 7

18

前日、コニーがタクシーに乗り込むところまで見届けて、
五十男はホテルに戻ってくるなり、シャワーだけ浴びて寝てしまった。

コニーが住んでいる場所は、まだ知らない。
住居までは、まだ聞かなかった。
そこまで馴れ馴れしくしていい段階ではないだろう。

この日、朝起きたのは9時過ぎだった。
大いに寝坊してしまったわけだ。

とはいえ、今日も予定はない。
今日は何をしようか。


朝食後、まずはトクに電話して準備ができているかどうか確認することにした。

幸い、昨日SIMカードは5枚も買ってきた。
1枚店主との会話で使ったから、残り4枚だ。
通話チャージは20ドル分を2枚買ってある。

SIMカードを電話機に入れて、電話を掛けた。

「はい」

「トクさん、私です」

「あ、○○さん?
お電話待ってましたよ」

トクがまた五十男を本名で呼ぶ。

「首尾はどうです?」

「準備できましたよ。彼は待機しています」

「もうこっちに来てもらっているんですか?」

「ええ、昨日着きました。
あとはもう一回僕に電話してもらえれば大丈夫です」

「良かった。ありがとうございました」

「どういたしまして」

「ひとつ追加でお願いしたいことがあります」

「何でしょう?」

「彼には、市内にいてもらいたい」

「伝えておきますよ」

よし。これで安全面は一安心だ。
いざというときの保険ができた。
あとは使い方だけだ。


この日は、特にやることはないので、無理に外には出ないようにして、
昼飯はフラトン1Fの中華料理店、「JADE」でとることにした。

「JADE」は粋な内装に相応しく、品の良い店内で、
静かな雰囲気に満ちている。

五十男はなぜか無性に棒棒鶏が食べたくなり、
それとチャーハンを注文した。

奇妙な組み合わせだが、それだけでお腹いっぱいになってしまった。


午後はせっかく時間がたっぷりあることだしと、
持参したマーク・グリーニーの小説を読むことにした。

ところが、2時間ほどして眠くなってしまい、昼寝してしまった。

起きたのは、夕方だった。

身づくろいをしてホテルを出た。


店主の店に到着すると、店主の顔を見て軽く会釈したほかは、
着席して食事に専念した。

この日は金曜日ということもあって、店は大繁盛、
いや修羅場と化していた。

五十男は食事しながらこの店の客層を観察した。

チャイナタウンということもあって、客の中の多くを占めているのは中国人だ。

あとは地元のシンガポール人。

第3の勢力は、白人や韓国人。日本人も1組だけいる。
あそこに近づかないようにしよう。
色々聞かれたら面倒だ。

そんなことをしながら時間を潰しているうちに、看板の時間になった。

店主が五十男のところに来て言った。

「今日も動きはない」

「そうか」

「今度からこうしよう。
22時まで待つ必要はない。
何時でもいいから、来て、オレが気が付くように注意を引いてくれ。
そしたら、オレは用があれば首を縦に振る。なければ、横に振る」

「わかった。それじゃ」


「待てよ」

「なんだ?進展ないんじゃないのか?」

「あんた、オレをコケにしているのか?」

「何の話だ?」

「とぼけないでくれよな。
何が進展なしだ。
あんた自身は、だいぶステディにやっているようじゃないか」

「すまないが、本当に何のことを言っているのかわからない」

「ああ、そうかい。
だったら言おう。
昨日の女はなんだ?」

そう言って店主はテーブルの下から日本酒の瓶とおちょこを取り出して、
テーブルの上にドン、と音を立てておいた。
やってられねぇよ、とでも言いたげだ。


「昨日の女?クラーク・キーにいるときに電話に出た女のことか?」

「そうそう」

五十男が話をしてくれるのだと思って、
店主の顔が期待に輝く。

「バーで絡まれたんだ。
向こうから絡んできた。
バーなんかだと、よくいるだろう」

「シンガポール人の女がか?」

「そうだ。オレも相手はシンガポール人だったから驚いたんだ。
シンガポール人でも、たまにはああいうのもいるんだな」

「あんた、本当に嘘をつくのが下手だな。
嘘にもなっていない。
それでもスパイか?」

「ひどいな。キズつくじゃないか」

「オレが言っているのはな、こうだ。
酒も飲まないあんたがバーに一人で行くわけがない」


・・・

五十男は、店主の言う通り、就く職業を
真剣に考え直した方がいいのではないか、と思ってしまった。

確かに彼の言う通りだ。
自分は、周到に用意された台本をそれらしく演じるのは得意だが、
いつもアドリブに弱い。
しどろもどろになってしまう。
頭の回転が人より遅いのだ。

コニーに思案してから決める、と言われたことを思い出した。

「ほら、図星だろう?
吐いちまえよ!」

店主が決め技にかかってきた。

しょうがない、親友のこいつに隠しても栓なきことだ。

五十男は、あまり細かいことはいわず、
コニーとの関係を簡単に説明した。


「うーん、コニーちゃんか。
麗しいねぇ。今度、オレの店にも連れてきてくれよ、
な、な?」

「今日はこれで帰るよ」

「え?連れねえなぁ」

「もう22時だ。お前も一日働いて疲れてるだろ?
早く休めよ」

五十男は捨て台詞を残して退散した。

19

翌土曜日も、五十男は特に行く当てもなく、
マーク・グリーニーの世界に没頭していた。

グリーニーは本当に面白い。
主人公のコートは相変わらず彼女がいないのに、
オレと来た日には・・・

とはいえ、こっちは現実世界だ。
考えても仕方がない、と五十男は割り切った。


日が落ちると、また店主の店に行った。
さすがに、そろそろ寿司にも飽きてきた。

店主と目が合うと、彼は首を横に振った。
またか。
五十男は肩を落として店を出た。


この日は、一旦ホテルに戻った。

それからホテルを出て、通りを渡ってマーライオンパークの脇を通って、
店が並んでいる岸の方に行き、カフェの席に着いた。

湾の方を見ながらサブウェイのサンドウィッチのようなものを、
2つばかり注文して、手早くかぶりついた。

食べ終わると、また歩き出した。

今晩は、コニーのいるクラブに顔を出そうかと考えていた。
どうせ何もないし、橋を渡るだけで着ける。


彼が橋と呼んだ、エスプラネード・ブリッジをのんびり渡りながら、
五十男は右手の方を眺めやった。

さきほど迂回したマーライオン・パークが見える。
ライトアップされたマーライオンの彫像に、
ハエが群がるがごとく観光客が集まり、
記念撮影にいそしんでいる。

見たところ、中国系・韓国系の人々が多いようだ。

余計なことを考えていたところ、前から来た人にぶつかりそうになった。

「コートート(ごめんなさい)」

前から来た人物はそう言って謝った。
タイ語だ。


すごいな、この辺は。
アジア各国の人々が集まっているんじゃないのか?
どうせなら、サミットもここで開けばいいのに。

そんな皮肉を考えながらも、五十男は先を急いだ。

橋を渡り切って、ラッフルズ・ブールバードを右折すれば、
もうパン・パシフィックだ。

ホテルに着いて、パシフィック・クラブに上がっていくエレベーターの中で、
彼の心臓は早鐘を打っていた。

学生ではあるまいし、落ち着けと五十男は自分に言い聞かせた。
そう考えている時点で、既に自制心を失っているのだ。

本当に気を付けないと、もし彼を狙っている人物でも付近にいたら、
命取りになりかねない。

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チン、と軽い音を響かせてエレベーターは38階で止まった。

スッと扉が開くと、五十男は盛況ぶりに驚いた。
土曜の晩だから、混んでいるだろうとは予想していたが、
殆どの椅子に客が着いているんじゃないのか?

あまりの混雑に、新参の客の方にウエイトレスが来ない。

それでも五十男はなんとか隅に一脚見つけて、
自分から歩いて行って座った。

カウンター席はごめんだった。
カウンターの中にも店員がいるから、
後でコニーとねんごろな話ができない。


五十男はクラブに入ってすぐ、コニーの姿を認めたのだが、
彼女はあまりの忙しさに、まだ彼の方に気付いていない。

別のウエイトレスがやってきて、注文を訊ねた。
彼はリンゴジュースを頼んだ。

コーヒーか茶の方が良かったのだが、まだ20:00だ。
今日は長丁場になりそうだったので、利尿効果の高い飲み物は避けることにした。

五十男がそんな小癪なことを考えていると、
忙しそうに動いていたコニーが、ふと横を向いた。

五十男が座っている方向だ。
その瞬間、彼女の顔がパッと輝いた。


男にとって、最も幸福な瞬間である。

このクラブ全体にしても、ウエイトレスが三人、
カウンターの中に30代と思しきウェイター
(バーテンダーと呼ぶのか?わからないが)が二人いる。

コニーを除いたらウエイトレスは残り二人で、
その二人にしてもかなりの美貌だが、
それでもやはりコニーはひときわ輝いていた。

あの女性と自分は知った間柄なのだ。
これは誇りに思っていいだろう。


一方、コニーは既に仕事の表情に戻っており、
プロに徹していた。

10分かそこいら経った頃、彼女は五十男がいる席の方にやってきた。

「すみません、今日はなかなか来れなくて」

「こちらこそ、すまなかったね、こんな忙しそうな時に来てしまって」

「そんなこと。来てくれてうれしい」

例の、見るものをとろけさせるような笑みを浮かべる。

五十男の胸の中で、バラの花が咲いた。


「今日は何時までいてくれます?
もう少ししたら、わたし、来れると思います」

「きみの気が済むまでいるよ」

五十男は、コニーに飲み物のお代わりを告げた。

彼女は一旦カウンターに引き返して、
別の客のテーブルに寄って、それから
カウンターに戻って五十男の注文の品をを受け取ってから、
また五十男のところに戻ってきた。

飲み物をテーブルに置いて、また得も言われぬ笑みを
彼の方に向けてから、去っていく。


五十男にとって、充実した時間だった。

他の客でもコニーとねんごろになろうと、
ちょっかいを出す客がいるのではないかと気が気でなかったが、
ここはホテル内のバーだ。

殆どがカップルか、どう見ても夫婦客で、
男性の一人客など殆どいなかった。

5分でもコニーと親しく会話でもしているような客がいたら、
彼の胸中は嫉妬の炎で燃え上がっていただろう。

1時間は経ったであろうか。
店内の客は減っていなかったが、
新たに入ってくる客は途絶えていた。


コニーが五十男のテーブルにやってきた。

額にうっすら汗が浮いている。
それでも、彼女はにこにこしていた。

五十男は、ハンカチを出してその汗を拭ってやりたい衝動をこらえた。
こんなところで目立つ行為はまずい。

コニーが向かい側の席に座った。
飲み物を注文したそうだった。

「この店は女の子に飲み物を飲ませてもいいのかな?」

「大丈夫ですよ。
料金はお客様持ちですけど」

「水分補給したいんじゃないのかい?」

「ええ、実は」

「好きなものを頼むといいよ」

「じゃあお言葉に甘えて」

彼女は自分でカウンターに行って、何かピンク色の飲み物を持ってきた。
グラスのふちに、さくらんぼが載っている。
ワインだろうか?

「それは何?」

「カクテル。飲みます?」

五十男は慌てて首を振った。

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「ここはそういう店だとは思わなかったな」

コニーが首を傾げる。

「いや、つまりよく客が店員の女の子に飲ませて、
話し相手をさせるような店があるだろう」

「あら、中にはわたしを口説こうとするお客さんもいますよ」

コニーがいたずらっぽく笑った。

五十男の顔色を見て、コニーの笑みが顔いっぱいに広がる。
飲み物を唇から離してから、言った。

「安心して。わたしはあなたにしか興味ないから」

またいたずらっぽく笑う。
五十男は完全に翻弄されていた。

忘れないうちに予約しておこう。


「例の博物館のことだけど」

「ええ、ええ」

「次の木曜日ではどうかな」

「いいですよ。楽しみ」

「じゃあ、決まりだ」

「どこで待ち合わせしますか?」

「きみの電話番号を教えてほしい。
来週のどこかで、こちらから連絡するから」


コニーは横目遣いに恨めしそうな目つきになって、
しばらく五十男の顔を見ていたが、
そのうちに腰のベルトに差したペンをとって、
ナプキンに何か走り書きしたものを差し出した。

もちろん彼女の電話番号だ。
秘密のパスワード。

五十男はそれを受け取って、ポケットにしまってから言った。

「今日はこの辺で退散するよ。
あまり長居すると、きみの魅力に酔って帰れなくなりそうだ」

「まーあ、お上手ね」

コニーはまあの部分をことさら強調して言って、立ち上がった。

「今日はこれでお別れですね」

「そうだね。それじゃまた」

「はい。また」


五十男は満ち足りた気分で家路に着いた。
家路、と言ってもホテルへの帰り道だったが。
今回は、いつまでここ(シンガポール)にいることになるのだろう。

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