■2021年6月22日:スパイ小説の世界へようこそ 11
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木曜日、待ちに待ったコニーとのデートの日だ。
少年のようにはやる五十男は、6:30には起きてしまった。
昨日彼女には、7時か8時に電話すると言ったが、
向こうは昨日は仕事のはずだ。
7時は遠慮して8時に電話することにして、
五十男は朝食を摂りに行った。
朝食会場では、よほどにやにやしていたのだろう、
係りの者が不審そうに五十男を嘗め回すように見たが、
気を取り直して席を案内してくれた。
五十男は係りの人間が用意してくれた席は部屋の中央だったので断って、
壁際の席はダメかと訊いてみた。
部屋は空いている。
係りの男は、もちろん問題ありません、と言って
コーヒーか茶をお持ちしましょうか?と訊いて去っていった。
五十男はコーヒーを頼んでおいた。
コーヒーが来る間に、トーストとジャム、ベーコンと適当にサラダを皿に持って、
席に戻った。
食べながら自分を見ている人間や、入り口から内部の様子をうかがう
不審な輩がいないか探したが、心配には及ばないようだった。
今日のところは目下、オレの方が不審人物だろう。
食べ終わると、早足で部屋に戻った。
戻るなり、さっさと電話のSIMカードを取り換えた。
これを使った後は、残り2枚だ。
トクやアドゥルへの連絡を考えると、
これ以上使うようなら追加で買う必要がある。
コニーはすぐに電話に出た。
「もう、昨日は困りましたよ。
もっと早く連絡してくれればいいのに」
「すまない、すまない。
忘れていたわけではないんだ」
「気を持たせるなんて、憎い人」
電話の向こうで例の恨めしそうな顔をしているコニーの姿が目に浮かぶ。
「悪かった、謝るよ」
「それで、今日はどうするの?」
「まずは博物館に行く路線で構わないだろう?」
五十男はまずは、の部分をことさら強調した。
博物館で一日潰れるわけがない。
「ええ、いいですよ」
「待ち合わせの場所だが、きみはどこに住んでいるんだっけ?」
「イーシュンです」
「イーシュン?」
「そうですよ。知ってますか?」
知っている。以前韓国人の友人がそこに住んでいて、
一度行ったことがある。
閑静なアパート街だ。
「遠いじゃないか」
「でも、電車に乗って1時間も掛からないですよ」
五十男は頭の中で計算した。
今は8時だ。彼女は9時に出たとして到着は10時。
女の支度に1時間は、シャワーを浴びたりすると、
ちょっとキツいくらいだろう。
「今、私が化粧したりする時間を考えているでしょう?」
五十男はドキっとした。
シャワーを浴びる姿を想像していた、とは言えない。
「いや、まあ当たらずとも遠からずだね」
電話の向こうでコニーがうふふ、と笑った。
「わたし、今日は楽しみで早起きしちゃったんです。
だからもう服は着ています。
そんなに時間かからないですよ」
「そうか」
「ケントリッジの駅で10時に待ち合わせしましょう」
「そこから博物館まで、結構あるんじゃないか?」
「大丈夫、バスが出ています。
わたしがわかります」
「わかった。今日はきみに会うまでこの電話番号のままにしておくよ」
「わかりました。それじゃまた後で」
「了解」
五十男は電話を切って、さっそく出かけた。
昨日のことがあった後だ。
先に着いて偵察しておこう。
コニーと合流してから慌てたくない。
五十男は経験豊富なエージェント、というわけではなかったが、
勘は鋭いつもりだった。
そのおかげで、今まで何回かの作戦をくぐり抜けてきた。
昨日の一件は、必ずしも尾行されているとは考えていなかったが、
誰かが彼のことを調べている、という確信はあった。
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ケントリッジ駅に着くと、五十男はすぐに病院の外に出て、周りを一周した。
脅威は感じられなかった。
駅のところに戻った時には、もう10時近くなっていた。
コニーは殆ど10時ちょうどに現れた。
五十男の姿を認めて、輝くような笑顔を浮かべる。
「こんにちは」
近づいてきてそう言った。
今日のコニーの服装は、赤というかワインレッドのワンピースが、
スタイルの良い体を包んでいる。
胸元は、緩すぎず、そんなに開いていない。
細い金鎖のネックレスをしていた。
この間とは違うショルダーバッグを吊っている。
美しい。
五十男は茫然と目の前の女性を見つめていた。
五十男はと言えば、Tシャツにジーンズという、いつものだらしない恰好。
先日買った5.11のRUSHバッグを肩からたすき掛けしている。
もちろん、剪定ばさみは既に出してある。
コニーがその鞄を見て、腕のG-SHOCKを見て、最後にダナーのブーツを見て、
変わった格好ねぇ、というような表情をした。
「今、変な人ねぇ、と考えているだろう」
五十男にそう言われて、図星だったのだろう、コニーは大きく笑った。
「ミリタリーが好きなのね」
間違いなくオタクだと思われている。
「そうでもないよ」
コニーは黙ってあきれたように何度かうなずいた。
わたしと連れ立って歩く男としては、失格だわ。
「まあいいわ、行きましょ」
二人して駅舎、というか病院を出た。
バス停までの短い距離を歩く。
博物館行きのバスはすぐに来た。
二人は乗り込むと、平日だから空いているのだろう。
コロナウィルスが流行していたころを思い出した。
どんな乗り物も、みんなガラガラだった。
二人掛けの席に並んで座った。
コニーが先に窓側に座り、続いて五十男が通路側に座るのを、
美しい顔を上げて見ていた。
「きみは一人暮らし?」
座席に座るなり五十男は聞いた。
「両親と一緒ですよ。なんで?」
「いや、ご両親は僕のことをどう思うかな、と思って」
たちまちコニーが意地悪そうな表情を作った。
「わたしの彼の年齢を聞いたらびっくりするかも」
「まだ話してないんだろう?」
コニーはびっくりした表情になった。
「話してないわけないでしょう?
休みの日におめかしして出ていく娘に、
何も聞かない親がいるもんですか」
五十男は面食らった。
「それで、きみはなんて言ったんだ?」
「デートだとは言ったわ。
それ以上、わたしが両親になんて言ったかは内緒」
そういって、五十男の手の甲をつねった。
コニーが顔を近づけたので、化粧品の匂いがした。
香水は使っていないようだった。
なにかの化粧品の匂いだ。
いい匂いだった。
バスは5分くらいで博物館に着いた。
バスの中で五十男はポケットから電話機を取り出し、裏蓋を外してSIMカードを抜いて、
それはシートとシートの隙間に押し込んでから、
新しいSIMカードを電話機に入れて、フタを戻し、
電話機の電源を入れてからポケットにしまった。
その間、コニーはいぶかしげに五十男のやっていることを見ていたが、
何も言わなかった。
五十男はウィンクをして返した。
博物館の入り口で、二人分のチケットを買って、
料金は五十男が払った。
コニーは大人しく従った。
コニーが言った通り、博物館はなかなかの見ごたえだった。
恐竜の見本、ワニやサメや何とかドンの大きな剥製、
三葉虫の化石の前で、五十男はゆうに10分は立ち止まって眺めた。
古生物の展示の他にも、一般の古代・中世の人類の歴史の
コーナーもあって、主婦が写真を撮っていた。
以前、マリーナ・ベイ・サンズに併設のアート・サイエンス・ミュージアムに
マフアンと一緒に行った時も、展示物を撮影している見物客がいたが、
五十男はそのような行為を快く思っていなかった。
もちろん、撮影禁止なのである。
法に違反する行為は良くない。
自分も職業柄、ときどきやるが、大っぴらはまずいだろう。
コニーも同感と見えて顔をしかめて早く遠ざかろう、とあごで先を促した。
博物館はカフェが併設されており、
二人はそこで昼食をとることにした。
「どうでした?」
食べながら、コニーが訊いた。
「いやあ、楽しかったよ。
少年に帰ったような気分だね。
御多分に漏れず、僕も子供の頃は恐竜に憧れたものだった」
「男の子だったんですね」
「きみはここには来たことがあるの?」
コニーは首を振った。
「ここはそんなに前からあるところではないんですよ。
話には聞いていて、一度来たくはあったんですが、
一人では来れませんでした。
女友達で一緒に来てくれる子もいないし」
なるほどね。
「次はどこに行きますか?」
コニーがやる気を見せてくれるのはうれしかったが、
そう聞かれなかった場合に備えて、五十男は既に次の行き先を用意していた。
「ボタニック・ガーデンなんかどうだろう?」
「素敵!カップルには最適ですね」
「あそこには行ったことはある?」
「何回かありますよ。
でも実はナショナル・オーキッド・ガーデン
(蘭園)は見たことがないんです。
ちょうどよく開いていなくて」
花が嫌いな女性はいない。
男が恐竜が好きなのと一緒だ。
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シンガポール・ボタニック・ガーデンは、シンガポール初の世界遺産で、
その名の通り植物園なのだが、南国でしか見られないような植物を豊富に見学できる。
単なる植物園ではなく、園内にレストランやカフェもあるので、
デートにはもってこいだ。
そういう名前の地下鉄駅もあるのだが、入り口から遠いので、二人はタクシーで行くことにした。
入り口も何か所もあるのだが、五十男は蘭園をぜひ見せたいと考えていたので、
タクシーの運ちゃんにナッシム・ゲートまで行ってくれるよう頼んだ。
運転手は、自国のミス・シンガポールに選ばれてもおかしくないぐらいの美女と、
日本人のふけた親父という不思議な組み合わせに、好奇の視線を向けてきたが、
黙っていた。
蘭園まではどこのゲートからも結構歩くのだが、
二人は寄り添って景色を見ながら歩いた。
コニーが五十男の手を握ってきた。
五十男は焦ってはいけないと思っていたので、
握り返しはしなかったが、手はそのままにしておいた。
蘭園は美しかった。
五十男には種類はわからないが、きっと希少種なのだろう。
しきりに写真を撮っている観光客が絶えなかった。
今度は、コニーが童心に帰ってはしゃぐ番だった。
五十男は、赤に近い紫のワンピースを着た彼女自身が、蘭のようだと思った。
蘭園を見終わると、二人はその入り口にあるカフェ「Halia」に入った。
ここは、様々な花をモチーフにしたジュースを出す店だ。
色とりどりなドリンクを楽しめる。
五十男は、読んでも何の花だかわからない飲み物を注文した。
コニーが頼んだ飲み物も、五十男にはなんだかわからなかった。
五十男が頼んだ飲み物は、黄色く透き通っていた。
コニーのものは、赤というか茶色というか、
それより、植物の葉自体がグラスの中に入っていた。
「ここにも奥さんと来たことがあるのね」
コニーに唐突に指摘されて、五十男は驚いた。
「え、何でそう思うんだい?」
「顔に書いてあるもの」
驚いた。この娘は自分の亡き妻と常に競い合っている。
「聞いてもいいかな」
「どうぞ」
「僕の何が、というかどこが君のお気に召したのかな。
今、この時間を楽しんでもらえてるとしてだけど」
コニーはそれまでグラスの中身をかき混ぜていた、
撹拌棒から手を放して、横を向いた。
二人は屋外席に座っており、森に囲まれたハリアの入り口が見えた。
横向きの姿勢になって、裾を直しながらコニーは言った。
「目よ」
「目?」
目、とはまた謎めいたことを言う。
「そう、あなたの目。
あなたの目は、ときに悲しそうで、ときに射るような目つきになるのよ」
「へぇ」
「最初にクラブであなたを見かけたとき、
あ、この人はきっと奥さんか何か大切なものを亡くした人なんだな、って思った」
「本当かい!」
「ええ、本当。
それで、その日、帰るころにはその人の目は、
強い意志を秘めた目に変わっていた」
「へぇ」
「あなた気が付いて?
この間会ったとき、わたしがあなたは考え事をしている、と言ったでしょう」
「そうだね」
「あなたって、考え事が終わると目つきが鋭くなるのよ」
「そ...そうかい?」
「そうよ。
そして目つきが変わったということは、あなたは考えを決めたってこと」
そうなのか??
なんとなんと、自分ではそんなこと思いもつかなかった。
「例え小さなことでも、ひとつひとつの事柄は意味を持っているのよ。
でなければ、人間は言葉を発したりしない。行動もしない。
”特に意味はない”なんて存在しない。
あるとすれば、それは言いたくないことだ、というだけ」
そういうとコニーは、また五十男の正面を向いて、
にこにこしていた。
「恐れ入ったよ」
「あなたの目の秘密はまだあるのよ」
「え、まだあるの?」
「そう、あるの。
たいていの男の目が、女の子の方を見ながら鋭くなったとき、
その男はその子を食べちゃおう、って決めたときなの。
でも、あなたはそういうことを匂わせもしなかったし、
さっき、ここにきてわたしがあなたの手を握ったときも、
握り返しもしなかった。
だから、あなたは誠実な人だって思った。
それに、恥ずかしがりもしなかったから、
あなたは女を目的の一つとしか見ないような男でもないと思った」
「そうなのか・・・」
「そうよ。男が恥ずかしがるのは、下心をさらすのが怖いからなのよ。
違う?
といっても、あなたはそうじゃないから、わからないわよね」
はあ。
何も言えない。
ここまで自分を美化されると、返す言葉がない。
「あなたって、物怖じしないでしょう?」
「どうだろう、わからないな」
コニーは開いた両手の手首にあごを載せて、
五十男の方を向きながら、目を閉じて言った。
「そうなのよ。
あなたは自分に自信を持っている。
あなたは、自分のすることが正しいと信じている。
それが嘘だろうと間違っていようと、
自分の判断は良心に基づいていると考えている。
だから、怖がる必要がないのよ」
そうなのか。
よくわからないが、とりあえず降参だ。
「わたしも聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「はい、なんでしょう、女王様」
「そんなにかしこまらないで。
あなたは日本人でしょう?」
おっと、ガラっと話題を変えてきたな。
「そうだよ」
「日本のどこの出身?」
「神奈川・・・Prefだね」
「Province?」
「そう」
「ご両親は?」
「ピンピンしてるさ」
「ふーん」
「どうして?
まさか僕の両親に会いたいとか言わないよね?」
コニーは手を口元にやって笑った。
もうお決まりの仕草だ。
「聞いてみただけ」
「日本に行ったことは?」
「ないわよ。
オオシマさんは、タイには長いんでしょう?」
「そうだね。
もう20年近くいるね」
「そんなに!
ビザはどうしてるの?」
「婚姻ビザは切れているから、
所属先が便宜でビザを用意してくれてる。
最初はサラリーマンだったから、その会社が用意してくれていて、
やめた後は、婚姻ビザに切り替えたんだが、
妻が死んだあとは、それもなくなってしまったからね」
コニーが少しうつむき加減になった。
「また奥さんの話ね」
「いや、そんなつもりは・・・」
「奥様のご家族とかとはまだお付き合いはあるの?」
「あるよ。
犬を引き取ってもらった」
「ワンちゃん?」
「犬が好きでね。飼っていたんだが。
妻が死んだあとは、私は見ての通り不在がちだったから、
妻の実家の家族にずっと預かってもらってるんだ」
「どんなワンちゃん?」
「雑種だよ。でもタイの犬種だから、
メスだけど気が強い」
「名前は?」
「マリー」
「アハハ、どんな名前なの?」
「いいじゃないか」
「まあいいけどね。
奥さんのお墓とかはあるの?」
「あるさ。もちろん。
年に1度は帰るようにしてる」
急に、コニーが少しまじめな顔になった。
「わたしも今度行ってみたいわ」
「へ?どこに?」
「あなたの奥さんのお墓。
私、あなたの奥さんに勝てるかどうか、試したいの」
はあ。何を言い出すかと思えば。
「だめ?」
「い、いや、ダメじゃないよ。
そうだ、今度帰ったときに墓前に行って、
女房に訊いてみるよ」
「よろしくね。
ワンちゃんにも会ってみたいわ」
そう言って、コニーはまたにっこり笑った。
「すごい田舎だぜ。
バンコクから遠いし、電気が村で10Aしかないんだ。
あ、20Aにしたんだっけな?
そうそう、お湯も出ないから、きみなんかシャワーを浴びれなくて困るだろうさ」
「え?そんなところなの?
女の人たちもいるんでしょう?」
「いるよ」
「その人たちはどうしてるの?」
「水を浴びてる」
「えぇ〜、冷たそう!」
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五十男は、横手に何か見えたような気がした。
コニーとの会話を楽しみ、驚きつつも、警戒は怠っていなかった。
周到に用意して、むしろ、誘い出したつもりだった。
向こうからしたら、こんな森の中に逃げ込むとは、袋のネズミ、といったところだろう。
ボタニックガーデンは、人工とはいえ、森は森だ。
バラして死体を隠すには、困らないだろう。
その男は、盆栽を手入れする係りのような服装をして、
森からカフェにつながる通路に出てきたところだった。
だが、その顔は、確かに昨日見かけた中東っぽい男と同じだった。
そんなことも見抜けない五十男ではなかった。
五十男はまず、テーブルの上のナイフとフォークを取って、
RUSHバッグのフラップの上のファスナーポケットにしまった。
なにかの役に立つかもしれない。
次に、落ち着いてポケットから電話機を出すと、
リダイヤル機能を使ってトクの電話番号を呼び出してから、
電話機を持ったまま、コニーに「行こう」と言った。
「行こうってどこに?」
コニーが不思議そうな顔をしている。
振り返ると、中東系の男はこちらに向かって歩いてきていたが、
店の女性店員が不審そうに男に近づいて何か言っている。
いいぞ。コニーの服装ではあまり早く移動できない。
いくらか時間を稼いでくれ。
五十男は立ち上がってコニーの腕を引いて、
「こっちだ」と言った。
電話機の通話ボタンを押す。
「こっちってどっちよ!?」
五十男はコニーの手を引きながら、自分は欄干を越えた。
電話機の向こうでは、もうトクが電話に出ていた。
「もしもし?」
コニーはワンピースの裾から中が見えないよう、
手をやってもたもたしている。
五十男は電話に向かって「トクさん、出番です」と言ってから、
電話機を一旦下に置いて、両手でコニーに手を貸した。
バッグは背負ったままだ。
コニーが欄干をまたぐと、五十男は屈んで電話機を拾い上げた。
「彼はすぐ行きますよ」
トクが言った。
「電話機をそのままにしておいてください」
「了解」
トクか、トクの配下が、電話機の位置を突き止めようとしているのだろう。
五十男は電話機を持った反対の手でコニーの手を引きながら、
森の中にある講演用のステージに向かって走り出した。
後ろを見ると、中東男もこちらに向かっているのが見えた。
店員は振り切ったのだろう。
五十男は走りながら考えた。
左の森に入るか、右の森に入るか。
左の方が森が茂っている。
左だ。
コニーの手を引いたまま、森の中に突っ込む。
森の際は広場になっていて、多くの観光客がいた。
一部の人々が、彼らは何をやっているのだろう、
と呆けたように二人の方を見やった。
五十男はそんなことには構わなかった。
こっちは命が掛かっている。
コニーの言う通りだ。
オレは、自分で決めたことをやろうとしているだけだ。
誰にも文句は言わせない。
後ろは振り返らなかった。
敵はもうすぐ近くまで迫っているとわかっていた。
立っていると標的になるので、屈んで、コニーにもそうするように勧めた。
それをしながら、RUSHバッグのフラップを開けて、
中から園芸店で買った紐を取り出して、さっき店からくすねたナイフで、
結び目を切ってほどきながら周囲を見た。
適当な木の幹を見つけると、紐を持って一周し、
結んだ端を持って反対側の幹の根元に滑り込み、寝転んだ。
コニーにもこっちにきて同じことをするようにと、どなった。
電話機は頭の横に置いてある。
彼女もさすがに異変を察したらしく、
大人しく従い、同じような姿勢になった。
「一体何なの?」
「しっ」
追手が来た。
その男も走っていたが、見失ったと考えているらしく、
きょろきょろしながら五十男が張った封止線に近づいた。
なんと、チェーン・ソーを持っている。
どこから持ってきたんだ?
今だ!
五十男は素早く片膝をついた姿勢になりながら、紐を引っ張った。
間抜けな男は紐に足をすくわれて転んだ。
チェーン・ソーの重さが仇になって、
かなりの運動エネルギーがかかっただろう。
そのころには、ナイフを持った五十男が接近していた。
五十男は相手の下腹部を狙ってナイフを突き刺した。
男が絶叫を上げる。
痛いのだろう。
当たり前だ。
だが、五十男には神と違って慈悲の心はない。
悪党は、慈悲を与えるに値しない。
五十男はコニーの方に戻って、電話機を拾った。
コニーは両手で口を覆っている。
今見た光景が信じられないのだ。
悲鳴を上げないだけ上出来だ。
五十男は行くぞ、と声を掛けてコニーの手を引っ張った。
応援が来るまでは逃げないといけない。
相手はまだ死んではいないし、こっちは殺しのプロじゃない。
樹木の下生えのようなところを見つけて、
コニーを屈ませて、尻を押して伏せさせてから、
自分も隣にもぐりこんだ。
コニーはガタガタ震えていた。
五十男も震えていたが、こちらはアドレナリンの噴出によるものだ。
まったく、五十の男がやることじゃない。
黙って待っていると、案の定、くだんの男が腹を片手で押さえながら、
周囲に気を配りつつ、やってきた。
血だらけだ。目が憎悪に燃えている。
今度は、反対側の手に鎌のようなものを持っている。
まったく、いくつ武器を持っているんだ?
男が向こうに行ってしまうと、二人は立ち上がって下生えを出た。
中東男は向こうに行っていなかった。
少し進んだ先で屈んでいたのだ。
しまった、気が付かれていたか。
さすがに、向こうは暗殺のプロと見た。
口元に残忍な笑みを浮かべている。
男が何か言っている。
アラビア語だろう。
こんな事態にも関わらず、五十男も
アッサラーム アレイコム(アラビア語の挨拶)と挨拶しようかと皮肉を考えたが、
相手からは好意的な返事は返ってきそうになかった。
男が一歩前に出た。
その時、五十男たちがさっき隠れていたのとは反対の茂みから、
全身黒ずくめの男が飛び出してきた。
五十男たちがあっと思う間もなく、
その男は中東男の首に手をまわして口をふさぎ、
反対側の手に持ったどう見ても戦闘用のナイフで、
中東男の胸を深々と突き刺し、さらにこねくり回した。
コニーが思わずしゃがみ込む。
五十男は、その口に手をやって、叫ばれてもいいようにふさいだ。
ほんの数秒の出来事だった。
黒ずくめの男は、死体の口をふさいだまま音もなく横たえて、
ナイフに付いた血を死体の服で手際よく拭って、
そのナイフは腰の後ろに手をまわしてしまってから、
五十男たちの方へ近づいてきた。
「大丈夫か?」
日本語だった。
背が高く精悍な顔立ちで、色白だったが、どう見ても日本人ではない。
「ありがとう。助かったよ」
「オレはユノ。
ボスがよろしくとのことだった」
ユノはそういうと、さっさと立ち去った。
名乗るとは、変わった暗殺者だな。
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