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■2021年6月29日:スパイ小説の世界へようこそ 12

トクの配下に脅威を始末してもらった後、
五十男は電話機を耳に当てたが、
通話はとっくに切れていたのでポケットに戻し、
コニーを助け起こそうとした。

コニーは既に気を失っており、涙が頬を伝っていた。
五十男は屈んでコニーの上半身を自分のももの上に載せ、
その涙を指で拭いてやってから、頬を軽く叩いてコニーを起こした。

コニーは目を開けたが、彼女の目は何も見ていなかった。


五十男はとりあえず今はそんなことは気にしていられない。
コニーは五十男と同じくらいの体重だ。
とても担いでは行かれないので、立たせてコニーの手を引いて、
庭園を出るべく走り出した。

コニーは機械的についてきた。
逃走本能というやつだ。

死体はそのままにしておいた。
そんなものを心配しても益はないし、
イスラム教徒だったら、今頃天国で処女とよろしくやっている。


タクシー乗り場にたどり着くと、泥まみれの自分の体と、
まだ茫然としているコニーの体の泥を手で払った。

コニーの胸の柔らかい感触を手の平ごしに感じたが、
欲情している場合ではない。

もうすでに誰かが不憫な殉教の徒を発見したのだろう。
サイレンの音が聞こえている。
人の声もする。

五十男は自分の体と手を見まわした。
さっき悪党を刺したときに、血が手に付着する感触があったが、
途中いろんなものを触る間に取れたか、わかりにくくなったらしい。


タクシーが来た。
コニーを先に載せて、運転手にイーシュンまで、と告げた。

「あなたのホテルに行く」

五十男は目を丸くした。
この娘は何を考えているんだ?

「こんな格好で家に帰れるわけないでしょ!」

そりゃそうだ。

こっちに人が来ないとも限らない。
五十男も急いで乗り込み、パンパシフィックへ、と告げた。
運転手がにやにやしている。

今度はコニーが目を丸くする番だった。

「パンパシフィックに泊まってたの?」

五十男はその質問は無視して、
鞄からウェットティッシュを取り出して、一枚をコニーに放った。


コニーはウェットティッシュで手を拭きながら、
またあきれたような顔をしている。

いろいろ持ってるわね。

ただ、さきほどから五十男の用意周到ぶりを目にして安心したのか、
落ち着きを取り戻しつつあるようだ。

「さっきの男は何なの?」

「ホテルに着いてから話そう」

そう言って五十男はタクシーの背もたれに頭を預けて、目を閉じた。

ああ、疲れた。
だが、一点だけほっとしたことがあった。
それは、この一件でコニーが敵である確率は、
だいぶ低下したと考えて良さそうだということだ。

もともとそんなことは疑っていなかったが、この稼業だ。
何でも額面通り受け取ると、命の危険につながる。

コニーが泣いたりショックを受けた表情をしたのは芝居かもしれないが、
自分が彼女から見て標的だとした場合、
標的の前で気を失ったふりはしないだろう。

それに、彼女は自宅がイーシュンだと告げている。
さきほどイーシュンに行くのを拒否したのは、
そこが彼女の自宅ではない可能性もあるが、
五十男は彼女が自宅にいる間に電話を掛けている。

そんなことはいくらでも調べようがあるし、彼女の立場からして、
まだ五十男の所属機関は見抜いていない可能性が高い。
どこまでの捜査力があるのかもわかっていないだろう。

29

パンパシフィックに着いた。

五十男は料金を払ってタクシーを帰した。

五十男の部屋まで、コニーは黙ってついてきた。


彼女は部屋の中まで入ってきて、

「シャワー」

それだけ言うと、五十男の許可を求めずにシャワールームに入っていった。

五十男は、その間に部屋の中を見回した。
家宅捜査された様子はない。

あの男は何だったのだろう?

当面の疑問は、どうやって五十男の居所を追跡したのかだ。

電子メールを傍受された可能性はあるが、パソコンは持ち出していない。

とすると、やはり電話が怪しいだろう。


そういえば、トクに電話していなかった。
礼を言わなければ。

その前に、やることがあった。

スーツケースを開けて、ファスナー部から少し厚めの
丸いボタン電池状のものを取り出した。
人差し指と親指でつまんで持った時、人差し指の位置にスイッチがある。
彼はスイッチを押した。

五十男が取り出したものは、盗聴機発見機で、
電池部分は文字通り電池だ。表面に小さなLEDがついていて、
今、それが緑色に光っている。
電源が入ったのだ。

NIAが寄越した機器で、曲がりなりにも諜報機関に属していると、
恩恵にあずかれるささやかな特典だ。

部屋内に盗聴装置が仕掛けられていた場合、
それがどこにあるのかは、プロが本気で”掃除”しないとわからない。

電気製品の内部に組み込まれているようなものは、簡単には見つからないからだ。
この装置は、そういった機器の電波を探知して、
発見した場合、LEDが赤くなるらしい。

とにかく、NIAの担当者はそう請け負った。

盗聴カメラの類は、さきほど見回した限りでは、見当たらなかった。
壁に埋め込まれた光ファイバー型のカメラのようなものは、
家具との境目の目立ちにくいところなどにあるものだが、
そういった痕跡もなかった。


電話機は、通話不可のアイコンが表示されていた。

電話機の残額を調べると、残っていなかったので、
鞄に入れておいたプリペイドカードのコードを入力して、チャージした。

シャワールームからは、コニーがシャワーを浴びる音が聞こえている。

「もしもし」

「トクさん、助かりました」

「ああ、僕もユノから話は聞いています。
大冒険でしたね」

「彼はどこの人?」

「ユノ?韓国人ですよ」

「なるほど、でも名乗っても平気なのですか?」

「正義の味方は名乗るものですよ!
本名じゃないしね」

「なるほど、とにかく助かりました」

「どういたしまして」

そう言って電話を切った。


忘れないうちにSIMカードを取り換えた。
最後の一枚だ。
どうせだから、通話カードもチャージして、
電源は切っておいた。

それにしても、あの中東男・・・

ん?シャワーの音が止んでいるぞ?

「あなたもシャワーを浴びた方がいいわ。
ほとんど真っ黒よ」

声がした方を向くと、タオルを体に巻いたコニーが立っていた。
髪も濡れているので洗ったのだろうが、
それにしてはいやに出てくるのが早かったが、
女性の身支度をあれこれ詮索するのは、男としてみっともない。

考えをまとめ切らないうちに、コニーが出てきてしまった。

「もしかして、わたしのシャワーが短かったとか、考えていない?」

またしても考えを読まれた。
「い、いやそんなことはないよ」
慌てて否定する。

「わたしはね、職業柄こういうことを手早く済ますコツを知っているのよ」


五十男はうなずいて自分もシャワーを浴びに行った。

浴びながら、さきほどコニーの露わな姿を見たせいか、
下腹部が目を覚ましたようだった。

彼はもう一人の息子を叱りつけた。

こら、夜なんだから、寝てろよ。

シャワーが終わると、彼もタオルを体に巻き付けて、寝室に戻った。

コニーがさきほどと同じ格好で、ベッドに腰かけていた。

手には、ビールの缶。

「ごめんなさい。
冷蔵庫を開けて、勝手にやってるわ」


元のコニーに戻ったようだった。
立ち直るのが早い。
見上げた娘だ。


彼女がビールを口に持って行きながら、
反対側の手で五十男の体の下の方を指差した。

「何か出っ張ってる」


これほどばつの悪いこともないだろう。
もともとそんな気はなかったのに、状況がそれを許さなかった。
五十男も所詮は男だ。

彼は笑ってごまかした。
少なくとも、そのつもりだった。

コニーがビールの缶をベッドサイドテーブルに置いて、
五十男の方に近づいてきた。

五十男の下腹部が、コニーのタオルに触れた。

コニーの顔に満面の笑みが広がる。

「わたし、シャワーを浴びながら考えてたの。
さっき、あなたはわたしを守ってくれた」

五十男は黙っていた。
コニーが続けた。

「あの・・・死んだ男は、
死んだのよね?」

「そう思う」

「悪い人だったんでしょ?」

五十男はうなずいた。
チェーンソーを持って追いかけてきた人間が善人なはずがない。

「だとしたら、わたしは巻き込まれたんだわ。
でも、とにかくあなたはわたしを守ってくれた。
そうよね?
自分が生きるためだけじゃなかったと言って。

味方みたいな人がいて、あの人はあなたが呼び出したんでしょうけど、
自分を保護してもらうだけが目的じゃなかったと言って」


「もちろんそうだよ。君を愛している」

言ってしまった。
これを言ってしまったら、もう後戻りできない。
愛とは何か?
それがわかれば苦労しない。

ただ、感覚で知っているだけだ。

「教えて。
昨日は手を下したのはあなたではなかった。
あなた自身は、人を殺したことがあるの?」

「ないよ。相手を物理的に傷つけたことは何回かあるけどね」

「それでも、さっきはあなたが自分で手配した人殺しの現場を目撃した。
殺人をほう助したときの心境ってどうなの?
よく映画や小説では、ショックを受けるようなことが言われているけど」

「何も感じない。
相手は悪党だった。
オレは、やらなければならないことをしただけだ。

その代わり、1頭目の犬が死んだときと、
嫁さんが死んだときは、おいおい泣いたよ。
どちらも愛していたから」

コニーがにっこり笑って訊いた。

「白黒はっきりしているのね」

「そうさ。オレは大の男だ」


気が付くと、コニーが体を密着させていた。
胸のふくよかな感触を感じる。

彼女はすらりとした体形で、いわゆる巨乳ではなかった。
どちらかというと彼女の体形は、ギリシャ・ローマの彫像のような美しさだ。

コニーが自分のひたいを五十男のひたいにくっつけた。
コニーは、五十男より少しだけ背が高かった。
だから、少し屈んだ格好になった。

彼女の唇は、ふっくらとした形ではなく、薄い。
五十男の好みの形だった。

今は落ちてしまっているが、口紅を塗ってあると、引き締まって見える。

彼は、目を閉じて、気持ち顔を斜めに傾けて、その唇に自分の唇をあてた。
アルコールの味がした。

コニーが五十男のタオルをはだけた。
体をさすってくる。

驚いた、積極的な娘だ。


五十男もコニーのタオルを頭のも体のもほどいて、床に落とす。

彼女の乳房を両手で包んだ。

彼女が笑って唇を離した。

またひたいをくっつけて、上目遣いに五十男の顔を見た。

「わたしもあなたを愛してる」

下に手をやって、五十男の第一か第二の息子を手で包んだ。

「彼は我慢できないみたい」
そう囁いた。

五十男も笑って、またキスをした。

二人はそのままベッドに倒れ込んだ。

30

翌朝、コニーは朝早く起きて、シャワーを浴びた。

五十男は彼女は仕事に行くのだろうと思っていたのだが、
コニーはタオルを体に巻き付けたまま、
シャワールームから出てきてベッドの端に座り、
下に転がっていたショルダーバッグを拾って中をまさぐっていたが、
スマートフォンを取り出すと、ボタンを押して耳に当てた。

「コニーです。
頭痛がひどくて・・・
エヘ、わたし、今日は女の子の日みたいです。

はい、すみません。今日は休みます」

まいった。電話の相手は恐らく五十男と同姓だろう。
こんな品よくぶりっこされたら、誰だって拒否れない。


コニーは電話機をベッドの上に放り出した。

口をあんぐり開けて見ている五十男の方を振り向いて、
美しい笑顔を向けた。

「今日はあなたと一緒にいる。
でもあなた、わたしの服を買ってきてくれないといけないわよ。
わたしは着るものがないから」

電話を受けたクラブの彼女の同僚か上司が、
彼女は同じホテルに男と一緒にいると知ったら、
どんな顔をするだろうか。


五十男は、10時くらいになるまで待って、
コニーがホテルの電話台に載っていたメモ用紙に書いたサイズを手に、
階下に降りて洋裁店に行き、コニーに似合いそうな服を探した。

スカートとかブラウスとかいっていると面倒なので、
彼は紺のワンピースを選んだ。
どうも彼女の職場でのイメージが先行しているようだが、仕方がない。

そのくらいしか頭が回らなかった。
値札を見ると、とんでもない値段だったが、これも仕方がない。

幸い店員は中年女性だったので、彼は聞いてみた。


「下着なんかも売っていますか?」

「はあ?」

中年女性は面食らった反応を返した。

「実は、妻が、洗濯に出すのを忘れていて、
汚れものしか残っていないと言うんですよ」

「ございますよ。そういう方のためにご用意しています」

五十男が差し出したメモを見て、出してくれた。

「種類はございませんけどね」

助かった。

「大丈夫。妻も文句は言わないでしょう」


買い物を抱えて部屋に戻った。
コニーはホテルのガウンを羽織って、TVを見ていた。

「昨日の事件のニュースをやっているわ」

「今はいい。きみが着替えて腹ごしらえするのが先だよ」

コニーは五十男が調達してきたものを見るなり、苦笑いした。

「何かまずかったかな」

「ううん、平気よ。
職場の服と同じだと思っただけ」


コニーが着替え終わって身支度をすると、二人は階下に降りて行った。

もう朝食の時間は過ぎております、という係員に、
五十男は手を挙げて、アラカルテで構わないと告げ、席に着いた。


二人は適当なものを注文した。

しばらく黙って食べていた。

五十男はちらっとコニーの顔色をうかがった。
うっすらと化粧しており、昨晩愛された娘らしく、
しっとりとした表情をしている。

こんな状態で職場に行ったら、婚前の娘だと簡単に見抜かれるだろう。


彼はここ数年、こんな幸福感を味わったことがなかった。

本当に、マフアンの墓前に行って相談しようか。

「何を盗み見ているの」

コニーが目を上げて聞いた。

ドキっとした。

「いや、その、きれいだなって思ってたんだよ」

「わたしと結婚したらどうしようかとか考えていたでしょ」

五十男はどこかに逃げ出したかった。

「つくづくまじめねぇ。
大丈夫。まだ早いわよ。


ところで、わたしは初婚よ」

誰か、助けてくれ!


「まだとっておきのネタがあるのよ、情報屋さん。
ね、情報屋さんでしょ?」

「とどめは何だい?」

「わたし、昨日は連絡もしないで家に帰ってないのよ。
父と母に、なんて言えばいい?」

神よ、助け給え!


食事が終わると、部屋に戻って二人でTVを見た。
昨日の事件をやっているニュースにチャンネルを合わせた。

それによると、ムスリムの狂信者が何者かによって殺害された、と報道していた。

犯人は何者かわからない。
軍の関与が疑われているが、軍そのものは否定している。

まあ、この顛末自体は五十男にとってはどうでもよかった。
そもそも、まだ誰が善で誰が悪か、はっきりしていない。

その辺は、アドゥルにでも説明を求めるしかないだろう。


「もう隠しても仕方がないから言うよ」

彼はコニーの方を向いて言った。

「あなたはスパイなんでしょ。
どこの国の所属か知らないけど」

ぶ、先に言われてしまった。
つくづく勘の鋭い娘だ。

「でも、それ以上聞かないわ。
あなたがどこの国のスパイでも、わたしを守ってくれたことには変わらないから」

そう言って、五十男の頬にキスした。

ダメだ、目が回りそうだ。


五十男はコニーの方に向き直って言った。

「コニー、僕はタイに戻らないといけない」

「え、ハニー、こっちには戻ってくるの?」

もうハニーかよ。

「すぐにかどうかはわからないけど、戻っては来るよ」

「早く帰ってきてね」

まるで五十男の故郷はもうシンガポールであるかのような言い草だ。


それから五十男はパソコンで航空券の予約を変更した。
ビジネスクラスの航空券だったから、簡単に変更できた。

次に、さすがの彼もシンガポールで婚約者ができることまで想定はしていなかったのだが、
レンタルサーバーを確保しており、掲示板などいくつかのプログラムを置いていた。
コニーに、何かあったとき用に、そのうちの一つを教えた。

但し、そこに愛してるとかそんなことは書かないでくれと言って、じゃれついた。


熟慮の末、もう一つ、彼女のために保険を残しておくことにした。
最後の一枚のSIMカードを使って、出勤前の店主に電話した。

今コニーと一緒にいると言って、彼女に何かあったら面倒を見てやってくれ、と頼んだ。
店主には冷やかされたが、友の頼みだ、いいとも、と洒落を言われた。
そこで、コニーを電話口に出させて、店主とお互いの自己紹介と電話番号交換をさせた。

これは、ある意味では店主にコニーの身元も洗ってもらうつもりだった。
コニーがそのことに気付くかどうか。


そのあとは、その日は夕刻発の便だったので、それまでコニーと一緒にいた。

アドゥルには連絡しなかった。

NIA手配の航空券だから、いずれにしろ帰国は知れる。

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