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■2021年7月5日:スパイ小説の世界へようこそ 13

31

バンコクに戻ったのは土曜の夜だった。
次の日曜日、五十男はメールをチェックして、
一日デスクトップ・パソコンをつけっぱなしにしておいたが、何もなかった。

タイ人は、休日はしっかり休む。


夜、トンロー通りの「勝浦水産」に行って、
カツオのたたきのニンニク醤油和えと、
アボガドサラダ、サザエの磯焼きに舌鼓を打った。

板前の佐藤さんが五十男に気付いて声を掛けた。

「お、まいど、久しぶり!」

「こんばんは」

「奥さんを亡くしてから元気なかったけど、
今日は顔色がいいねえ!」

・・・どうも五十男は何でも顔に出すぎるようだ。

寿司のおまかせ5貫にぎりを注文した。
五十男はサーモンの寿司は好みではないので、
佐藤さんが気を利かせてマグロに取り替えてくれてあった。

タイの人は、サーモンのにぎりが好きである。

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翌月曜日、短いメールが届いた。

最初、五十男は文面の内容がわからず当惑した。

おっと、そうか。
今日から月が替わっているんだ。
今月の符号は何だったか?
湖だったか星だったか?

落ち着いて解析すると、やはりアドゥルからの連絡だとわかった。

また会見したいとのことだ。
この日の午後、スクンビット通りを歩いていろ、とのこと。

望むところなのだが、こういう連絡があるたびにいつも思う。
相手は、五十男が日がなメールをチェックしていると考えているのだろうか?
これに対する解答は、だったら電話機を持て、だ。

そんならちもない考えは捨てて、五十男はまたパソコンのフォーマットをかけた。


午後、彼は通りに出た。

しばらくスクンビット通りを歩いていると、黒のメルセデスベンツが走ってきた。
バンコクのこの界隈は、メルセデスなどいくらでも走っているのだが、
その車は、五十男の前まで来ると、助手席の窓が開いて、
中からサングラスを掛けた男が顔を出した。

普通、街でこういう行為を受けたら、身をかがめるか退避するところだが、
今日は予告されているので心配ない。

男に親指で車の後部を指差され、
「ナーイ、クン ロット ノイ(ミスター、車に乗って下さい)」と
タイ語で言われ、五十男は指示通り後部座席に乗り込んだ。


車は、今回はアソーク通りに右折し、ニューペッブリー通りに出て、左折した。

ニューペッブリー通りは、スクンビット通りと並行して走っており、
都心から、果ては空港方面まで伸びている、郊外の通りだ。
とはいえ、通勤時間帯には混むこと間違いないのだが、
この日は昼過ぎということもあり、空いていた。

車は、とある住宅ともビルともとれる敷地内に入った。
助手席の男が下りてきて、後部座席のドアを開けた。

門の守衛とは別に、建物から別の男が出てきて、
五十男を手招きした。

やけに慇懃じゃないか。


建物の入り口に、スキャナーが取り付けられており、
五十男はX線スキャンされた。

今日はどうもセキュリティが重視されているようだ。
どうしたわけか?

男に先導されて廊下を進み、いくつかの部屋を通り過ぎた。
各部屋は鉄の扉というわけではなかったが、
プラスチック製の窓は中が見えないよう、曇った仕様にされていた。

とある部屋の前で、先導の男が止まった。
こちらです、と言って五十男を中に通す。


そんなに広くない部屋に、イスとテーブルがあって、
アドゥルが座っていた。

見たところ、オフィスの様な部屋だった。

アドゥルはいつも通り礼儀正しく、手招きした。
五十男が着席する前に言った。

「コーヒーが良かったら、そこにあるからどうぞ」

部屋の入口の壁に、コーヒーマシンが設えてあった。
五十男はそっちに行って、紙コップをセットしてボタンを押した。

コーヒーが紙コップに注がれる間、考えた。
さ〜て、今日は叱られるか、褒められるか、どちらかな?

向き直ってアドゥルの方に行き、席に着いた。


「きみもいろいろとあったようだが、時系列的に進めたい」

五十男はうなずいた。

「まず、ターゲットだったバイバルスだが、
これはきみのおかげもあって、問題なく処理された」

「おめでとうございます。今度は大丈夫だったんですね」

五十男は皮肉に聞こえないように気を付けて言った。

「うん。下手人のゴドフロアはね、うちの人間ではないんだが、
優秀でね」

「バイバルスがどこで処理されたのか、うかがってもいいですか?」

「ブギスのところのイスラム地区でだよ。
どこかの飯屋から出てきて、路地に入ったところを、
路地の反対側から撃たれて殺された」

「ニュースにもなりませんでしたね」

「優秀だと言ったろう。
サイレンサー付きの拳銃を使って、死体はどこかその辺に隠したのさ。
まあ年が明けるころには見つかるかもしれないな」


アドゥルの目が細くなった。

「次にボタニックガーデンできみを襲った男だが」

おっと。
そのことを知っていたのはさすがとはいえ、
その情報をここで聞けるとは思わなかったな。

なにしろ、五十男はあの事件は自分のミスだと判断していたのだから。

「名をジャラルといって、知られた男だった」

「どの程度知られた男なんです?」

「自由主義陣営側の人間を10人は殺している」

「それは相当な悪党だ」

「きみは適切な処理をしたが、
その方法は・・・きみの方の人脈だったのかな?
自己防衛に近いから、そのことについて咎めるつもりはないが、
あまりお勧めはしないね」

トクのことを言っているのだ。
どう言い訳しても非合法は非合法だ。
しかし、五十男の関心は他にあった。


「もしお教え願えたらなのですが・・・
なぜ私の素性が発覚したんだとお考えですか?」

「そう、私もそれをきみに教えておこうと思ってね。
それは電話だよ」

やっぱり。

「どうして特定されたんでしょう」

「1回か2回、私と通話しただろう。
話の内容は特定されなくても、NIAと通信しているものがいることは知れた。
NIAも特に公表はしていないが、CIAと同じで別に住所は秘匿されていないからね。
それからマークされていたんだろうね」

まいった。たったそれだけのことで追跡されていたのか。

「連中も、シンガポールで作戦する以上、神経質になっていたんだろうね。
それでマークされていたんだと思うよ。
デジタルの世界は、コンピューターの前に座っているオタクに指示すれば、
処理できてしまうからね。

ちなみに、誓って言うが我々はきみの電話を盗聴したりしてないよ」

ナドゥルは続けて言った。

「こればっかりはどうしようもないよ。
我々はきみの携帯電話を極力使わない流儀には、
むしろ敬服していたんだ。

それで、今後は衛星通信式携帯電話を貸与したいと思う」


五十男は首を傾げた。

はて。
自分のような外部の人間が、このような特別待遇を受けるのはなぜだろう。

確かに外部の人間だから、職員より報酬は高いだろう。
ただ、いざとなれば使い捨ての人間ではあるはずだ。


「つまり、この件はまだ終わっていないんだ」

なるほど。

「バイバルスが金の仲介人、つまりハワッラダーだったことは聞いているね?」

五十男はうなずいて言った。

「当ててみましょうか。
一人目の下手人が失敗したおかげで、金はもう渡った後だった」

今度はアドゥルがうなずく番だった。

「その通り。さすが、優秀だねぇ」

五十男は、この調子でこの組織は大丈夫だろうかと心配になった。


アドゥルの話は続く。

「それで、金が渡ったことで、テロ計画は先に進んでしまったらしいんだ」

はいはい。
もう驚きません。

「金は、誰から誰に渡ったのですか?」

アドゥルが呆けたような顔をした。

「ムスリムの原理主義者間に決まっているじゃないか。
例えば、ISからアルカイダに渡った、というようなことと同じだよ。
テロの実行部隊は組織ごとに違うんだ」

五十男はここでテロ組織の講義を受けたくはなかったので、
次の質問をした。

「標的はどこなんですか」

「シンガポール」

またか。

「シンガポールのどこですか?」

「マリーナ・ベイ・サンズを爆破するらしい。
あの大きなビルが倒壊すれば、さぞかし見ものだろう、というわけだよ」

「どうしてそんな情報を知っているのですか」

「通信を傍受した」

ほう。
やっぱりオレの電話の通信も盗聴していたんじゃないのか?

「私たちじゃないよ。アメリカの友人たちだよ」

やっと吐いたか。
あんたらは、CIAの支援か圧力を受けて動いているんだな。
こっちはどうでもいいが。

「一神教徒が、一神教徒同士殺しあうのは、
一神教徒の宿命だよ。

昔は、キリスト教徒が十字軍といって、ムスリムを大勢殺した。
だが、その後キリスト教勢力を地中海から締め出したのはイスラム勢だ。
ただ、問題はそれは過去の話であって、
今現在テロを行っているのは再びイスラム陣営の方だ。

植民地主義政策によって覇権を広げた西側に対して、悔しいからといって
昔のことを取り上げてだから復讐するんだ、という理屈は通らないんだよ」

至極正論のように聞こえた。
仏教徒であるアドゥルの口から聞くと、説得力がある。


「それで、どうするんですか」

「またシンガポールに行ってもらいたい」

「私の役割は?」

「具体的に言うと、爆破実行犯は、ゴドフロアに始末させる」

「じゃ、私が行かなくてもいいのでは?
費用も節約できますよ」

アドゥルが手にした書類から目だけを上げて言った。

「きみ、ゴドフロアはいわばこちら側の実行係だよ。
犯人を特定・追跡するのは彼の仕事じゃない」

あー、はいはい。

「次の犯人には名前かコードネームはあるのですか?」

「わからない。実は、まだターゲットのいどころも分かっていない。
わかっているのは計画が実行段階に入った、ということだけで」

いろいろと面倒ですな。


「だから、その情報は現地のきみの友人から入手するように。
それと、今回きみには女が必要だと思う」

一瞬ドキっとした。

「なぜ同行者が必要なのですか?」

アドゥルが算数の計算を間違えた生徒を叱る教師のような顔になった。

「きみ、マリーナ・ベイ・サンズで、男が一人で行ってぶらぶら何をするのかね?」

なるほど。

「きみなら、チャイナタウンあたりのバーで調達することもできるだろうが、
もし性に合わないと言うなら・・・
こちらで女性部員を手配するが、どうかね?」

五十男はアドゥルの本心が分からなかったので、即答を避けた。

そこで、考えておく、と答えるに留めた。


「ところで、いつ行けば?」

「できればすぐにも行ってもらいたい」

「申しわけないのですが、1,2日お時間をいただきたい」

アドゥルが珍しく目を剥いた。

「なぜかね?
休養が欲しいのかね?」

「妻の墓参りをしたいのです」


さすがにこれを言われては、仏教徒であるタイ人には
何も言えないだろう。

「わかった。しかし明後日には現地に入ってもらいたい」

五十男は了解した。


建物を出ても、まだ五十男は考えていた。
ひとつだけわからないことがあった。

アドゥルは、コニーという人物の存在に一言も触れなかった。

ボタニック・ガーデンでの事件を知っていて、
テロ組織の通信を傍受できるのだから、知らないわけがない。

どんな裏があるのだろう?

女に関する要件の回答をぼかしたのも、ここに理由があった。

考えてもわからないことは、いくら考えてもわからない。
妻の墓前に行くまでに考えるか、
あるいはシンガポールに着くまでわからないかもしれない。

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32

五十男の亡き妻、マフアンの生家は、
タイ中部ナコン・サワン県の山奥にあった。
ミャンマーよりのところだ。

五十男は、古い知人の運転手に、この晩のうちにNIAから借りた
衛星通信電話で電話して、翌日ナコン・サワンに行ってくれないか頼んだ。

もうこの電話があれば、傍受の心配をしなくていい。
ましてやタイ国内だ。

翌日、朝早く迎えに来てくれた知人に、五十男は報酬として5,000バーツ(約 \17,600)支払った。
もちろん、ガス代は別だ。

タイ人の日給で、この金額は破格の稼ぎだ。


バンコクからナコン・サワンの亡妻の実家まで、普通なら5〜6時間、
道が空いていてどんなに飛ばしても4〜5時間かかる。

ナコン・サワンの県庁まで、4〜5時間はかかるのだ。
そこから亡妻の田舎まで、さらに2時間くらい掛かる。

まず3時間は無理だろう。
トータルで4時間というところだ。

昼過ぎに、村に着いた。
義姉さんが、迎えに出てくれた。
来る前に連絡しておいたのだ。

タイの田舎の村というのは、一族郎党が固まって住んでおり、
住所登録もその筆頭者の氏名になっている。

五十男の亡妻の実家の場合、
ずっと前に亡くなった義父さんを中心とした村になっているのだが、
兄弟・親戚がたくさんいるので、今でも誰かしら住んでいるのだ。

犬のマリーも飛びついてきた。
元気そうだったので、五十男はうれしかった。


ここはド級の田舎で、
電気製品はTV、冷蔵庫、電子レンジが村にひとつずつしかない。
妻が亡くなる前にエアコンを入れておいてくれたので、
とりあえず寝ることは快適にできる。

水も、水道の蛇口はひねっても出ない。
大元のタンクの口をひねらないと、出ないのだ。
決まった量しか買っていないので、風呂に入るときくらいしか出ない。

風呂は、その水を貯水区画にため込んでおき、
たらいですくいながら水を浴びる。

あとの水は、もっぱら水瓶にためた雨水で、
飲み水は、もちろん加工水を買う。


現金収入はほとんどない。

畑で、里芋や落花生、サトウキビ、果物などを栽培している。
これは定期的に入れ替えされ、焼き畑がよく行われている。

通常は、これらの作物を物々交換して生活している。
ただ、土地自体が痩せているため、作物も痩せている。

他には、ゴムの木なんかもある。


ちなみに、トイレに紙はないが、
トイレで尻を洗うシャワーの蛇口だけは、水が出る。


五十男が昼飯は食べていないと告げたので、
義姉さんたちが、簡単に作ってくれた。
豚肉を焼いたものと、瓜やインゲンをご飯と一緒に生で食べる。

食事が終わると、運転手に頼んで車で5分もかからないところにある、寺に行った。
ここに、マフアンの父と母と、マフアン自身の墓もある。

五十男の死んだ1頭目の犬はヨークシャー・テリアだったが、
その骨は家の軒先に埋めた。


墓前に立ち、五十男は亡妻に向かってつぶやいた。


やあ、元気かい?

ハニー、僕はまだきみがいるところに行かれないけど、

きみがいなくなって5年、人生の風向きが変わってしまった。

一人じゃなかったら、きみは怒るかな?

こんな塩梅になってしまって、ごめん・・・

そんな格好つけたことを言った途端、
婚前に二人でここで今と同じように立って、
マフアンが亡母に向かって言った言葉を思い出した。

五十男はひざまずいた。


「お母さん、この人が夫になる人よ。
この人でいいかしら?」

その後、彼女は五十男の方を振り返って言ったものだった。

「お母さん、いいって」

その光景を思い出して、急に涙が出てきた。

オレはまた、なんてバカなことを・・・

涙が止まらなかった。

そうだ。妻をここに埋葬した日、
彼はまさにそこでこうして一日、日が暮れても泣いていた。

家族の人が心配して連れ戻してくれたのだ。


その時は、こんな仕事はしていなかった。
だが今は違う。
今は任務がある。

1時間もしたころ、彼は立ち上がって、車に戻った。

運転手は気の良いやつで、運転席に座って待ってくれていた。

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