■2021年7月26日:スパイ小説の世界へようこそ 16
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「僕らは帰ろう」
「終わったの?」
「そう思うね。
後はもう僕らにできることは何もない」
「案外簡単だったのね。
もっと怖い目に遭うかもしれないと思っていたけど。
でも、あなたが何でこんなことを仕事にしているか、
わかったような気がするわ」
「そうかい?
それは何なんだ?」
「だって、とってもエキサイティングだもの」
その後は、タクシーでマンダリン・オーチャードに帰って、
部屋に戻ると一応、何か事件になっていないか
ニュースでチェックして、何もなかったので、
この晩二人はまた愛し合った。
マンダリン・オーチャードでもそうだったが、
初めて愛を交わしあった晩のあと、
コニーは何かを探求しているようなところがあった。
おっかなびっくりの探り合いは、最初のときだけだ。
今は、互いに相手の求めに応じようとしている。
何が二人を結びつけたのだろう。
生死を分ける冒険を経験すると、心が急速に接近するのは確かだ。
戦友、という言葉があるくらいなのだ。
男女の関係であっても、そういうことが起きて不思議はない。
コニーの柔らかくてすべすべの肌をさすりながら、
五十男はそんなことを思った。
五十男は翌朝もTVをつけてニュースに合わせたが、
特に何もなかった。
この日、コニーは午後になると仕事に行った。
14時か15時に、ナドゥルからメールが入っていた。
微妙な話は、電話では連絡してこない。
また会見したいと書いてあった。
アドゥルからの連絡では、作戦は成功し、脅威は去った。
JIDもそうだがNIAとしては、五十男には多大な感謝を感じており、
ついては、じかに会って労をねぎらいたい、とのことだった。
それで、できれば明日にでも会いたいとのこと。
五十男はそのままパソコンで航空便の予約変更をした。
夕方の便が取れそうだった。
コニーに電話する。
彼女は勤務中だったが電話に出てくれた。
作戦の完了とタイに戻る旨を告げて、また連絡すると伝えた。
コニーは、待っているわ、と言った。
バンコクに戻ると、翌日、例の手順を踏んだ上で、
どこかに連れて行かれ、アドゥルとの会見に臨んだ。
「きみの勘を信じて正解だったよ」
何をいまさら。
「我々としては、ターゲットというより、爆弾の所在の方が心配だった。
どこにあるかがわからないから、
仕掛けられてしまってからでは遅い」
「それを最初に言っていたら、私が怖気づくと考えたんですね」
アドゥルはそのくらいではひるまなかった。
「そう。以前のきみならともかく、
今きみには大切な人がいるようだからね」
なるほど、それで今までコニーのことに触れなかったのか。
少し腹が立ったが、コニーとねんごろになったことに関しては、
NIAに責任はない。
仕方がなかった。
「コニー君によろしく。
ただ、なんというか・・・
我々としては、あまりのめり込んで欲しくはないのでね」
食えないやつだ。
これからもまだ仕事があるということか。
「今回の一件はこれで済んだ。
爆弾と、犯人は処理され、テロの危険は未然に阻止された。
報酬は約束通り、いつもの口座にボーナスを上乗せして、
振り込んでおくよ。
しかしイスラムのテロ勢力を根絶したわけではない。
テロとの戦いはまだまだ続く」
「それを終わらせることはできないのでしょうね?」
アドゥルが目をぱちくりさせた。
「それはそうだよ。
前にも言ったように、キリスト教と、イスラム教が、両方なくならない限り無理だね。
他の宗教が生まれるとかして、なくなっても無理かもしれない」
エピローグ
五十男の冒険は、2月の後半から3月初めにかけて行われた。
だから、それから少し経った4月、気温も上がって蒸し暑くなり出したころ、
五十男はコニーを迎えにスワンナプーム国際空港にやってきた。
「シンガポールも暑いけど、こっちも暑いのね!」
コニーは建物の外に出るなり、そう感想を漏らした。
「タイには来たことがあるんだろう?」
「あるわ。
でも両親と一緒で、一人で来たことはないの」
ナコン・サワンには今回、知人の車は利用せず、
一般の長距離バスで行くことにしていた。
コニーは濃いグレーのブラウスにスラックスという服装で、
彼女なりに、適した服装をしてきたつもりなのだろう。
タイはこの時期、ソンクランといって仏歴の正月にあたる休日を控えており、
日本で言う彼岸のような行事も、この時期に行う人々が多かった。
一般のバス旅行では、ナコン・サワンに行くまで、本当に時間が掛かる。
一回トイレ休憩でSAに立ち寄っただけで、村の手前の街まで5時間。
そこから、”ソンテウ(直訳すると、「その辺に送る」という意)”という
乗合タクシーのような乗り物の、
ピックアップの荷台みたいなところに乗り込んで、
二人は山あいの道を1時間くらい揺られた末に、村に着いた。
五十男は当然のように事前に義姉に電話しておいたので、
家族総出で出迎えてくれた。
「あれま、これはまたきれいな人だねぇ」
60を過ぎている義姉さんが、そう言った。
コニーも微笑んで応じた。
マリーも新参の仲間に飛びついてきて、コニーの顔中舐めまわした。
マリーは体重が12kgある。中型犬、よりも大きかった。
「まあまあ、あなたがマリーちゃんね」
到着したのは夕方だったので、マフアンの家族の人々が、
この晩は夕食を振る舞ってくれて、翌朝早く、
二人は義兄さんのトラクターに載せてもらって、
マフアンの墓がある寺まで連れて行ってもらった。
亡妻の墓前で、意外にも五十男は言葉に詰まってしまった。
立ち尽くす五十男の横で、コニーが訊いた。
「もう奥さんとお話ししたの?」
「ああ」
五十男は気がなさそうに答えた。
「なんて言ったの?」
「いや、ああ、妻にきみのことを紹介したんだ」
「声に出して言って」
仕方なく、五十男は亡妻に向かって言った。
「マフアン、この人が、その、オレの新しい奥さんになる予定の人だよ。
きみは、認めてくれるかな?」
また涙が出てきた。
しゃがんでしまいそうになったとき、
コニーが肩をつかんで支えてくれた。
コニーの頬にも涙が流れていた。
「ありがとう」
それだけ言うと、コニーは五十男の肩にあごを載せた。
そろそろ日差しが出始めてきていた。
ここは山奥なので、野鳥がたくさんさえずっていた。
「息子さんには話したの?」
義兄さんが待っているトラクターに向かう道すがら、
コニーが訊いた。
「いや、まだだよ」
五十男が答える。
「まだって・・・、いつ話すつもり?」
「さあね、あいつが学校を卒業してからかな」
「それじゃ遅いわよ!」
ソンクランを目前に控えて、二人はこの後プーケットかサムイに行くつもりだった。
どちらにするかは、まだ決めていなかった。
飛行機が空いている方でよかった。
そんなことは、後で考えればいいのだ。
ひとまずの結び
私は、シンガポールという国が大好きである。
私がシンガポールの何に惹かれているのかは、本文をお読みいただければ、
みなさんにもおわかりになるかと思うが、
私と妻はほとんど毎年、シンガポールに旅行していた。
それが、去年はコロナウィルスの影響でキャンセルし、
今年もまだ行けそうにない。
それと、この手の小説だが、なぜか東南アジアを題材にしたものは、なかなかない。
舞台の一部として登場することはあるのだが、
そこがメインになる、というものはないのだ。
タイに住み、シンガポールをこよなく愛する私としては、こんな残念なことはない。
であれば、自分で書けばいいのではないか?
そんな想いからこの物語は生まれた。
ところが、書き始めて小説家の方々の苦労が身に染みてわかった次第。
小説家の方にも、一気に書き上げる方と、
折を見て書ける分ずつ書いていかれる方と別れると思うが、
私は前者の方で、つまり、一気に書かないと、思いついたことを忘れてしまう。
私は仕事でも私生活でも、いろいろとそのたびにメモを残すのだが、
それでも間に合わない。
実際、この物語は、実は2月・3月でほとんど書き上げてしまってあった。
そして分量だ。
この物語を、仮に本に起こしたとしても、たいしたページ数にはならないだろう。
それほど、実は書くということは大変なのだとわかった。
さらにプロット。
物語だから、他の諸々の事どもと同じように、作戦なり、計画なりが必要だ。
何も考えずにだらだら書いていると、そのうちに以前書いたこととは内容が異なる、
という反故が生じるのだ。
例として、この物語の初めから終わりまでは、
21日間+エピローグという期間になっている。
読んでくれた方々でも、意外に感じる方もおられるかもしれない。
私も、敢えて何月何日、とは書かなかった。
修正の必要が生じた場合に、面倒だからだ。
要するに、あらかじめ結末まで考えてプロットを組まないと、書けないのである。
他の多くのプロの小説家の作品だと、
たいてい、例えばこういう作品であれば、黒幕の正体まではっきりしていたりする。
だから、この物語で私が最後の方でアドゥルにあのようなセリフを言わせたのは、
ひとえに私の力量不足と言える。
また、敵であるムスリム側の心理が書かれていない、という批判もあるかもしれない。
これについても、真実は私の力量不足だが、言い訳ならば用意してある。
つまり、小説としては失敗作でも、
実際にこの物語で語られているような出来事があったとした場合、
追う側であるキリスト教陣営の側からは、相手の心理は分かっていない状態で
調査・追跡を進めなければならないだろう、ということだ。
この物語の中に、「そんな店はもうないよ!」とか、そういった指摘はあると思う。
(クラーク・キーのFORBIDDEN やボート・キーの型無ももうない!?)
従って、あくまで作り話という前提でお楽しみいただければ幸甚である。
最後に一点だけ。
パシフィッククラブに、私自身一度だけ行ったことがあるだが、
パンパシフィック・シンガポールの宿泊客しか利用できない、
ということを、全て書ききってから知った。
そのため、この点に関してはお見逃しいただけるようお願いする。
それからもちろん、本作は妻の支えがなければ到底書き上げられなかった。
愛する妻への感謝をここに添えておきたい。
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